津田沼教会 牧師のメッセージ
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「ひとりではできない」(ヨハネ15:1~10)
ヨハネ15:1-10、2009・05・10、復活後第4主日(典礼色―白―)
使徒言行録8:26-40、ヨハネの手紙一3:18-24


ヨハネによる福音書15:1~10
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」
 


説教「ひとりではできない」(ヨハネ15:1~10)

本日の説教題を「ひとりではできない」と付けておきました。これは、私たちは一人で孤立して、何事においても力を合わせなければ、人間は生きていけないといった私たちの社会で言われていることを、念頭に置いたものではありません。すなわち、私の意図は、主イエス・キリストを離れていては、主イエスの私たちにお求めになっている愛の生活、毎日の日常生活で、実を結ぶことはできないということを、指し示すためであります。
さて、本日の与えられている福音、ヨハネ福音書15章は、来週の福音である15:11-17までを含みつつ、実を結び、実が残るという点で一つのまとまりをなしているのであります。
ヨハネ福音書15章は、すぐ前の14:31において、中断し、主の一行が最後の晩餐の場所から出て行った後の文章のようにも、見えますが、13章、あるいは14章から16章あるいは17章までは、最後の講話として、告別説教をまとめて、記されているのであります。
 そういう文脈の中での15:1-17が、本日と来週の主日に、復活節にふさわしい福音として与えられているのであります。それは、なぜでしょうか。本日の主の言葉は、すぐ後に迫っている十字架の出来事、受難と死、そして、復活と天の父への出発をみすえながら、記された主のお言葉なのであります。本日の主の語られたお言葉について、皆さんとしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 主は言われます。「私は本物のぶどうの木、御父は、園丁で、あなた方はぶどうの木の枝である」と。ぶどうの木は、旧約聖書に多く見られ、そこではイスラエルの民の象徴でありました。ぶどうの木は、ぶどうの実を生み出すすばらしい木であります。ところが、神に選ばれたこの民は、神からしばしば離れ、主イエスの時代に至るまで、罪を犯し、決して良い実を生み出すことはできなかった、失敗の民であったのであります。
 しかし、主イエスは、旧約の民イスラエルとは違って、良い枝をつけ、良い実を結ぶことができる真のぶどうの木なのであります。そして、弟子たちは、その枝だとたとえられるのであります。
 しかし、弟子たち、また現在の私たちは、常に幹である主イエスのみ言葉と、その働きに、つながっているのでなければ、決して自分からは豊かな実を結ぶことはできないのであります。そのことを、私たちはよく知っています。
 そして、私たちは、絶えず主につながっていなければ、よき実を結ぶことはできない。主は「私を離れては、あなた方は何も実を結ぶことはできない」と言われるのであります。私たちの実生活を顧みてみましょう。家庭の崩壊、団欒の時が失われていく現代の家族は、キリストのお言葉となさったみわざに、常につながっていなければ、決して充実した家庭生活を築くことはできません。
普段の毎日の生活の中でこそ、私たちは、キリストにつながって愛と信頼に満ちた生活ができるかどうかが、試されているのであります。そして、私たちが、主から離れてしまう時、私たちは火の中へと実を結ばない枝として投げられ、燃やされてしまうのであります。一日一日、主の言葉につながって行く時にのみ、愛に満ちた家庭生活あるいは、社会生活、地域での生活が可能になるのであります。
 このぶどうの木は、主イエスがもたらしました聖餐式によって、ユダヤの多くの祭り、特に三大祭り、過越しの祭り、七週の祭り、そしてよりもっと仮小屋の祭り、すなわちスコトの祭りが成就されたことを暗示させているとも言えましょう。聖餐につながり、毎日多忙な日もありますが、私たちは何をさておいても、み言葉によって養われてまいりましょう。
私たちのうちに働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

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2009/05/10(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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