津田沼教会 牧師のメッセージ
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「私の羊を飼いなさい」(ヨハネ福音書21:15~19)
ヨハネ21:15-19、2009・05・03、復活後第3主日(典礼色―白―)
使徒言行録4:23-33、ヨハネの手紙一3:1-2

ヨハネによる福音書21:15~19

 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。


説教「私の羊を飼いなさい」(ヨハネ21:15~19)
 本日の福音は、ヨハネ福音書21:15から19節であります。先週の記事の続きで、7人の弟子たちが朝食をすませたそのとき、復活の主はペトロに「ヨハネの子、シモン、私を、これらの者以上に愛するか」とお語りになります。
 ペトロは「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、主は「私の小羊を飼いなさい」と言われます。
 主は、再び二度目に「ヨハネの子シモン、あなたは、私を愛するか」と聞かれます。ペトロは、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。主は、再び、「私の羊の世話をしなさい」と言われます。
 そして、また、「ヨハネの子、シモン、あなたは、私を愛するか」と聞かれます。ペトロは、主が三度も、同じことを聞かれて、自分が鶏が鳴く前に三度、主を知らないと言って、見捨てて、裏切ったことを思い起こし、恥ずかしさと自責の念で悲しくなり、「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることは、あなたが知っておられます」と答えます。すると主は、「私の羊を飼いなさい」と同じことを三度、命じられたのであります。この文章は、何気なくさっと、読んでしまいますが、原文を見ると、多彩な言語が用いられており、美しい文章となっています。
 シモン・ペトロは、主によって、あなたの上に教会を立てようと、主によって選ばれた12弟子の頭でありました。主は、ペトロが、また、12弟子たちが、自分を見捨てて、最後の時に、逃げ去ることを知っておられました。しかし、主は、その後で、彼らに復活して現れ、世界宣教へと送り出されたのであります。
 「私の羊を飼いなさい」と主は、三度も、ペトロに、命令し、委託しました。「私の羊」とは、何よりも教会につながっていく信徒や求道者の群れであります。しかし、私たちは、本日の主日の祈りにもありましたように、主イエスによって、みもとに、招かれた者として、毎日出会うすべての人々、特に失われている人々や、傷ついている人々にも、み言葉を取り次ぎ、主イエスへと導く使命を、与えられていると言わなければなりません。
 ペトロと同様に、私たちは、自分の誇りや、業績を捨てて、主イエスに従順に従う生活を送りたいものであります。
 「牧師」とは、「羊飼い」の意味であります。羊は、迷いやすい人間存在を表しています。
そして、しかしながら、教会につながるすべての人が、羊であると共に、羊飼いの責任と特権を与えられているのであります。
 この対話の後、主は、ペトロが神の栄光をどのようにあらわすか、その死についても言及されています。この記事が書かれたときには、既にペトロは殉教の死を告げていたでありましょう。
 主に従うということは、今では、殉教ということこそないが、最後の時まで、私たち一人ひとりに、犠牲と主への全幅の信頼をもって、従順に従って行くことを意味しているのであります。
 「主イエスに出会った人は皆、天に召されるとき、主イエスに感謝するものである」とどなたかが書いておられたのを若い時に読んだことを思い出します。
 教会から離れている人々も、主イエスへの愛を持ちながら、最後は天に召されるのではないかと私は信じます。私たちにできることは、何とかして、そのような人々も、教会の群れとして、再び戻れるように努力することであります。そして、世のすべての人々に、主イエスによる救いを、一人でも多くの人々に伝え、証ししていく人生でありたいと思うのであります。アーメン。
 

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2009/05/03(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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