津田沼教会 牧師のメッセージ
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「ガリラヤ湖畔での再会」(ヨハネ21:1~14)
ヨハネ21:1-14、2009・04・26、復活後第2主日(典礼色―白―)
使徒言行録4:5-12、ヨハネの手紙1:1-2:2

ヨハネによる福音書21:1~14
 
その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかに二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。




説教「ガリラヤ湖畔での再会」(ヨハネ21:1~14)

 先週は、マルコ福音書の付録として後に付け足された16章の9節から18節までの主イエスの復活の記事が読まれました。そして本日、復活後第2主日は、ヨハネ福音書の21:1-14が福音として与えられています。そして、これ、ヨハネ福音書21章も、後で付加されたいわば補充された付録の部分であります。
そのことは、その書き方や、使われている語句などによって分かるのであります。マルコの16:9節以下と同じように、この21章の部分のヨハネ福音書の記者は、この記事をやはり、ここに加えないではおれなかったのであります。本日の記事をもう一度思い起こしてみましょう。
「それらのことの後に」、ペトロたちは、ティベリアスの湖の近くに集まっていたのであります。それは、ペトロをはじめとする7人であったと書いてあります。ペトロは、「私は漁をしに行く」と言いますと残りの6人も「私たちも行こう」と言って小舟に乗り込むのであります。
しかし、その夜は、1匹も取れなかったのであります。夜は、漁に最適の時であると言われますが、どういうわけか、1匹も取れなかった。そして、ついに、朝となりました。そのとき、ガリラヤ湖の湖畔へとある人物、実は復活の主イエスが立っておられたのであります。そして、彼らに「子たちよ、何か獲れたか」と声をかけられるのであります。彼らは、「いいえ、何も獲れていません」と答えます。
すると、その人は、「舟の右手に網を投げてみなさい」と言われました。それで、彼らが言われた通りにすると、夥しい量の魚がかかり、彼らは引き上げることができなかったのであります。
すると、主に愛されてきた弟子は、「あれは、主だ」と分かって叫んだのであります。自分たちの力や企てでは、一晩中かかっても、1匹も取れなかったのに、主のご命令に従うと非常な成功に弟子たちは与るのであります。
「人間を取る漁師にしよう」と、主は、ペトロたちを召し出されましたが、主イエスの弟子は、自分の力や努力にたよっては成果を得ることはできないのであります。
さて、ペトロは、「主だ」ということを、聞くと、上着をまとって、湖に飛び込んだのであります。それは、200ペキス、92メートル位の岸辺に近いところであったからであります。
ペトロは、行動するのにすばやい弟子でありました。「主に愛されてきた弟子」は、だれかはよく分かりませんが、12弟子たちの頭であるペトロと共によきパートナーであり、主の証しを保証するのになくてはならない弟子であり、この二人が、ヨハネ福音書においてはお互いに補い合う存在として出てきます。
いわば、理想的な弟子として、主イエスみ言葉とみ業を保証する、なくてはならない人物なのです。
さて、残された弟子たちも網をひきずりながら、陸に上がると、既に炭火がおこされてあり、その上で魚が焼かれており、パンも用意してありました。
復活の主イエスは、自分を見捨てて逃げた弟子たちをとがめるどころか、「さあ、やって来て朝食をとりなさい」と自分の弟子たちを招き、もてなす主であります。
「あなた方が獲ってきた魚からもいくらか持って来なさい」と言われるので、ペトロが乗り込んで、力を合わせて、引き上げると、153匹の魚であって、しかもお、その網は破れていませんでした。153という数字は、1+2+3+・・・17で、153になります。17は、10と7であり、いずれも完全数であります。
ペトロたちは、全世界へと、人をすなどる航海へと今から出て行くのでありますが、「破れていなかった網」は、教会が世界に充満し、いろいろな人々の多様な教会ができていくけれども、それはそれでもって一体をなす調和のとれた一つの聖なる公同の教会であります。復活の主は、こうして、エルサレムのみならず、ガリラヤでも弟子たちに現れ、主は私たちがどこにいても、復活の体を顕わして下さるのであります。弟子たちは復活の主にであっても、最初はいつも分かりませんでした。理解できませんでした。しかし、私たちもまた、この主に、聖書を通し、教会を通して再会することができるのであります。
どのような逆境の中にあっても、いや、むしろ、そのような時にこそ、復活の主は私たちに顕わされ、その主と共に歩む時、人知をこえた力で弟子たちの群れに大勢の世界中の人たちを加えて下さるのであります。アーメン。

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2009/04/26(日) 10:30:03| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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