津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主ご復活への畏れ」(マルコ16:1~8)
マルコ16:1-8、2009・04・12、復活祭(典礼色―白―聖餐式あり)
イザヤ書25:6-9、コリントの信徒への手紙一15:21-28

マルコによる福音書16:1~8

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚きことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたよりも先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。




説教「主ご復活への畏れ」(マルコ16:1~8)

 私たちは、聖灰水曜日(今年は2月25日)から、日曜日をのぞく40日間、そして、先週過ぎ去りました受難週の1週間を含めての40日間、主の十字架への道行きを覚えて、この時期を過ごしてきました。津田沼教会でも、今年は、受難週の金曜日に受苦日の礼拝を持ちました。主は、十字架を背負われ、ゴルゴタの丘で、二人の強盗と共に、十字架につけられ、十字架上から七つの言葉を残して、息を引き取られました。
しかし、それですべてが終わったわけではなかったのです。主自らが予告され、預言されておられた通りに、死んで三日目に、父なる神によって復活させられたのであります。その時の出来事を、私たちは本日、マルコの記事を通して、知らされているのであります。 
私たちは、この地上の命が果てたならば、もうそれで一切が終わると考えがちであります。そして、主のご復活、そして、私たちの復活ということがなかなか信じられないのであります。聖書を愛読し、教会に親近感を持っているけれども、復活ということが、どうしても、信じ難く、キリスト教に入らないという方が少なくないと思います。
 けれども、聖書は、特に新約聖書は、旧約聖書に預言されていた通り、神の独り子、主イエスがご復活なさった、父なる神によって、死人の中から起き上がらされたという知らせを、いろいろな証人たち、使徒パウロや、四つの福音書記者の証言や記事を通してはっきりと告げられているのであります。
 マルコ福音書16:1-8は、もともと、マルコ福音書の結末でありました。いろいろな疑問があり、説がありますが、私たちは、マルコ福音書の結論として書かれている本日の記事をそのまま、本来の結語として、信じることができます。その後に、カッコ書きで載せられている記事は、復活の主イエスが実際にご復活の体で顕現されたことを、記さずには、気が済まなかった人たちの載せた付録のようなものであります。
では、四つの福音書の中で最も古いと考えられるマルコ福音書の本来のオリジナルの結末と考えてもよい16:1-8の記事とはどんなものであったかをもう一度思い起こしながら、主のご復活について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 それは、こういうものでありました。安息日が過ぎたとき、すなわち、今でいう土曜日の日没後、マグダラのマリアと、ヤコブの母マリアとサロメは、主のご遺体に塗るための香料を買い出しに行きました。そして、安息日どもからの第一日目、すなわち、週の始めの日、今の日曜日の、ごく朝早く、日が上ったときに、彼女らは出かけます。今の季節でしたら、午前4時か、5時ころの時であったでしょうか。しかし、彼らは、墓の入り口をふさいであった石をだれが、転がしてくれるだろうかと互いに語り合って進んで行きました。
 ところが、目を上げてみると、既にその大きな石が既に転がしてあったのを彼女たちは見るのであります。そして、中に入ると、右手に若者が白い長い服を見て座っているのを見て、驚きます。すると、彼は言います。あなた方は、十字架につけられたナザレのイエスを探している。しかし、彼はもうここにはおられない。御覧なさい、彼らが彼を納めた場所である。彼は復活させられたのだ。
さあ、あなた方は、彼の弟子たちと、特にペトロとに伝えなさい。彼は、復活させられた。そして、あなた方に言われた通りに、ガリラヤに先に行かれている。そこであなた方は彼を見るであろうと。
そして、彼女たちを、身ぶるいと困惑とが捕らえた。彼女らは、そこを出て逃げ去った。そして、「彼らはだれにも、何も話さなかった。彼らは恐れていたからである、なぜならば。」大体、そういうふうに記されています。復活の主に現実には会わずに、彼女たちも、ペトロや弟子たちも、主を見ることなく、天使の証言と約束だけを与えられて、復活の出来事が記され、マルコのオリジナルでは完結しているのであります。
 「ごく早く夜明け前に、太陽が上ったときに」、彼女らは、起きて、主の体に香料を塗りに出かけたのでありました。マルコは、主の復活の様子も、復活顕現も記さずに、主が復活させられたとの若者、すなわち天使の証言だけを伝えているのであります。
 つい先日、主を知らないと否定したペトロと見捨てて逃げた弟子たちと、死によって、それまでの師弟関係、あるいは仲間としての交わりが、絶えるという結末とはならなかったのであります。主の復活は、さまざまに他の新約聖書の記者たちによって記されています。
 神ご自身が起こしたこの出来事によって、この世界の死と闇の領域に、新しい命が回復されたのであります。受難、十字架の予告と共に、聖書に預言されていた通り、三日後に復活すると約束されていた主イエスの保証の言葉が、実現されたのであります。
 主のご復活により、神の憐れみと赦しが、私たち一人一人に与えられ、まさに義の太陽が昇り、この日から新しい日が始まったのであります。そしてそれは、3人の女たちに、身ぶるいと困惑、我を忘れるほどの恐れと畏敬の念をひきおこしたのであります。そして私たちは、本日の記事を通して、今も神のご計画とその成就を知らされ、新しい、真の命を生きることが許され、可能とされているのであります。ハレルヤ、アーメン。
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。










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2009/04/12(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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