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津田沼教会 牧師のメッセージ
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「十字架をめざして」(マルコ11:1~11)
 マルコ11:1-11、2009・04・05、枝の主日(典礼色―紫―聖餐式あり)
ゼカリヤ書9:9-10、フィリピの信徒への手紙2:6-11

マルコによる福音書11:1~11
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ホサナ。
  主の名によって来られる方に、
   祝福があるように。
  我らの父ダビデの来るべき国に、
   祝福があるように。
  いと高きところにホサナ。」
 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。



説教「十字架をめざして」(マルコ11:1~11)

 いよいよ、本日から、受難週、聖週間が始まりました。そして、本日与えられている福音は、マルコ福音書11:1-11であります。ルーテル教会の教会暦の日課の中では、恐らくこの個所だけが、一年の主日において二度も読まれ、アドベント第1主日と共にエルサレム入城の記事が本日読まれるのであります。
それだけを見ても、教会において、これまで、どれだけ、この記事が愛され、大切にされてきたかが分かるのであります。そして、このエルサレム入城の出来事は、4つの福音書すべてに記されているのであります。
さて、いつも、言いますように、4つの福音書の中では、マルコがその成立が一番早く、一番古いのであります。それは、本日のエルサレム入城のそれぞれの福音書を読み比べればわかるのであります。
マルコ福音書では、救い主、メシアの輝かしい入城としては書かれていません。一番素朴で、地味なのであります。主がメシアであることが、秘められ、隠されているのであります。
さて、本日の出来事を、マルコの記事に沿ってもう一度思い起こしてみましょう。彼らは、エルサレムへと近づき、オリーブ山の麓へと、そしてペトファゲとベタニアへとやって来た時、主は、二人の弟子に命じて言うのであります。「向こうの村へ行きなさい。そうすれば、まだ、だれも乗せたことのない子ろばが見つかる。その子ろばをといて引いて来なさい。もし誰かが、子ろばをほどいて何をするつもりかと、聞かれたら、『彼のその主が必要を持っている。またすぐに、ここにお戻しになります』と、答えなさい」と。
それで、彼らが出て行き、村、たぶん、エルサレムに近いベトファゲの村であったでしょう。そこに入ると、通りの外に戸口に向って、子ろばがつないであり、ほどいていると、そこに立っていたある者たちが、「そんなことをして、どうするつもりだ」と言います。彼らは、主イエスが命じて下さった通りに、行かせてくれたのであります。
主は、弟子たちの出会う困難に対して、彼らを守る言葉をあらかじめ与えて下さるのであります。私たちが進むべき道において、迷う時にも、主は、必要な言葉を与えてくれます。
さて、彼らは、帰って来て、上着を子ろばの上に敷き、すると、主は、お乗りになられます。大勢の人が、上着を広げたり、野から、葉のついた付いた枝を切ってきて、しき広げます。そして、前を行く者も、あとを行く者も、「ホサナ、主の名によって来られた方に祝福があるように。父ダビデの王国が祝福されるように、いと高きところにおいて、ホサナ」と歓呼します。
しかし、主イエスは、黙々とエルサレムに向かって入って行かれるのであります。それは、受難と十字架の死が待っている場所へと、身分を低くして、その十字架の死に至るまで、人の子として、しもべのように、低い形で進んで行かれるのであります。
そして、人々はいつの間にか消え、主は神殿の境内のすべてのものを見回された後、12人とベタニアへと出て行かれるのであります。
私たちも、この十字架に向かわれる主の姿を見上げながら、従順に歩むなら、私どもも、この日本の社会も、世界も大きく変わるでありましょう。私たちは、受難週をそのようにして、心を低くしながら、人々に、また、社会に仕える道を、ここから再び歩み始めましょう。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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2009/04/05(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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