津田沼教会 牧師のメッセージ
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「世を救う光として」(ヨハネ12:36b~50)
ヨハネ12:36b-50、2009・03・29、四旬節第5主日(典礼色―紫―)
エレミヤ書31:31-34、エフェソの信徒への手紙3:14-21

ヨハネによる福音書12:36b~50
 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。
 「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。
 主の御腕は、だれに示されましたか。」
彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
 「神は彼らの目を見えなくし、
 その心をかたくなにされた。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 心で悟らず 、立ち帰らない。
 わたしは彼らをいやさない。」
 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放するのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表わさなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗やみの中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終りの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」



説教「世を救う光として」(ヨハネ12:36B~50)

本日は四旬節としての第5主日を迎え、来週は枝の主日を残すのみとなり、その後、四旬節の最後の1週間である受難週に入り、その聖週間を過ごすと、4月12日には、復活祭がやって来ます。
この主の十字架への道行きを覚えるのに、ふさわしい個所として、本日与えられているのは、ヨハネ福音書12:36Bから50節までであります。この部分は、前半の12:36Bから43までが、「イエスを信じない者たち」と小見出しがつけられ、後半12:44から50までが「イエスの言葉による裁き」とこれも小見出しがつけられて、大きく二つの部分に、新共同訳聖書は分けています。
ところで、この部分は、人々の前で、主イエスが公然となさったお話と13章から始まります主イエスの弟子たちへの告別説教、講話の間にはさまった啓示的な主イエスの言葉となっています。
主は、まず、12:36で、「光ある内、光の子らとして歩め」と言われたあと、出て行って彼らから身を隠されたという言葉から始まっています。多くのしるしを彼はなさったけれども、人々は主イエスに信じゆだねなかったと、福音書記者ヨハネは、記しています。
それは、預言者イザヤが語ったように、「彼らの眼が見ても、見ることがなく、彼らの心は理解することがなく、かたくなにされたからである」という言葉が実現するためであり、また、預言者は、「主よ私たちの知らせをだれが信じましたか、また、主のみ腕はだれに啓示されましたか」という言葉が実現したのであると言っています。そして、イザヤは、彼の、すなわちイエスの栄光を見、彼のこと、すなわちイエスのことについて語ったのであると記者ヨハネは、引用聖句を解釈しています。
しかし、実際、指導者たちの中にも、彼へと信じ委ねた者は多かったが、ファリサイ派のゆえに、会堂追放を恐れて信仰告白しなかったのであるといいます。
そして、彼らは、神の栄光、称賛よりも、人間の栄光、称賛を愛したからであると言っています。福音書記者の時代にも、ニコデモやアリマタヤのヨセフのような指導者もいたが、ユダヤ人たちを恐れて、会堂追放を恐れて、信仰告白しない者たちが少なからずいたのでしょう。
2000年近くたった現在でも、いろいろな障害や信仰に入るのを妨害する事柄・事情のゆえに、聖書に、主イエスに、そして教会に今一歩、足を踏み込まないでいる人々は多いことでしょう。
さて、私たちは、今日の主日の祈りにあるように、「あなたのみ言葉に頼らないでは」、そのような方々に、家族に、身内に、同胞に福音を伝道することは困難であります。
続いて、後半は、12:44から50節までであります。「イエスの言葉による裁き」としての啓示的な講和・説教が続いています。
主は、「私は、父から語られた通りに語っている」と大声で叫んで語り始められるのであります。「私を見ている者は、父を見ているのであり、私は、光としてこの世界へとやって来た、それは、私へと信じ委ねる者が、闇へととどまらないためである」と言われます。そして、「私の言葉を聞いても守らない者を私は裁かない、私は裁くためではなく、救うために来たからである。その者をさばくものがある。私が語った言葉が、終りの日にその人を裁くであろう」と言われます。主は、「自分から自分勝手に、私は語っておらず、父から聞いた通りに語っているからである」と言われ、「父の命令とは、永遠の命をあなた方が持つことである」と言われ、「だから、私は、父が言われる通りに語っているのである」と言われます。モーセのような預言者としてではなく、はるかにモーセ以上の者として、父から直接、大権・専権を与えられて、それを語る使者、使節として、自分は来たのであると言われます。
そして、最後に、父の命令とは、私たちが、永遠の命を持ち、私たちが闇と死のうちにとどまることなく、世の光として、やって来られた主イエスの言葉、父の言葉のうちににとどまることであると言われるのであります。アーメン。

 望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせてくださるように。



 




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2009/03/29(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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