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津田沼教会 牧師のメッセージ
「良い実を結ぶ者」(マタイ7:15~29)
マタイ7:15-29、2005・06・19、聖霊降臨後第5主日(緑)
申命記11:18-28、ローマ1:8-17

マタイによる福音書7章15節~29節
 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

説教「良い実を結ぶ者」(マタイ7:15~29)
 
本日は、聖霊降臨後第5主日であります。聖霊降臨後の季節に入って、私たちはイエス・キリストのお言葉となさったみ業、奇跡などを今年は、マタイ福音書を中心としながら学んでいきます。3年サイクルで、教会暦に従って、A年、B年、C年とそれを繰り返していくのですが、福音書はそれにもかかわらず、汲めども汲めども尽きない無尽蔵の豊かさを秘めていることを感じさせられます。
 本日は、このところ、読んできました山上の説教5章から7章までに含まれている部分の一応最後の箇所になりました。すなわち、7章の15節から29節までであります。小見出しがついていますように、偽預言者を警戒せよ、という部分と、「主よ、主よ」と私に言う者が必ずしもすべて、天の国に入れるわけではないという部分、そして、二人の家造りのたとえ、そして、最後に、主イエスの教えを聞いた群衆が主イエスの教えに圧倒されていたという山上の説教全体の結びの言葉から、本日の福音の箇所は構成されているのであります。しばらく、ご一緒に、本日の箇所から考えてみたいと思います。
 主はまず、偽預言者から注意を怠らないようにというお言葉で本日の部分を語り始められます。彼らは、羊の装いをしてあなたがたのところにやって来るが、内部は、貪欲な狼であると言われます。ところで、マタイは、特に十戒に対して、主イエスを通して、律法学者やファリサイ派の人々の義にあなたがたの義がまさっていなければ、天の国に入ることはできないと言わせられて、多くの教え、戒めを語られたのであります。それは、正式にキリスト教を排斥した紀元後85年のユダヤ教側の決定のころの、マタイの教会の状況を反映していると考えられます。ユダヤ教側の律法理解や、十戒の見方に対して、主イエスの口を通して、教会に与えられたものとして、5章から7章までの山上の説教が編集されたとも考えられます。
 さて、この偽預言者というのは、おそらく、その当時に、キリスト教会の内部で偽預言者が現れていることを暗示しています。彼らは真のキリスト教でないものを持ち込んでいたのであります。主はそれに対して言われています。茨からぶどうは取れないし、あざみからいちじくは取れない。あなたがたは彼らの実から彼らを識別するであろう、と。良い木から、良い実が生まれ、悪い木から悪い実が生じ、良くない木から良い実はならない。さらに、すべて良い実を生じない木は切り取られて、火の中へと投げられる、と。私たちは、良い実を生むためには、良い木である必要があります。それは、正しい信仰ともいえましょうし、正しい教えともいえるでしょう。山上での説教で、主イエスが語られたお言葉は、良い木であるといえるでしょう。私たちは、そのお言葉に日々真剣につながるとき、良い実、良い行い、実践が伴うのであります。しかし、私たちは、主のお言葉から本当にすぐに離れやすいものであります。しかし、だからといって、気落ちしたり、絶望することなく、山上の説教を中心とした主の教え、戒めにつながるために、まずは、キリストの真の教えと偽預言者とを峻別する確かな目を与えられるように祈り求めたいものです。
 主は、「主よ、主よ」というすべての者が、天の国に入れるわけではなく、天の父のご意志を行うものだけが、入れるのであると、続けて言われます。その日には、多くの者が、「私たちは、あなたの名で預言し、悪霊を追い出し、力あるわざ・奇跡をおこなったではありませんか」と言うであろうが、私ははっきりと、あなたがたを知らないと言うであろう、と厳しい終りの日の裁きに言及しています。私たちは、父なる神が、何を望まれているかを、山上の説教を通して、知らされています。
 そして、山上の説教の締めくくりとして、あの二人の家造りのたとえをなさいます。ある賢い人は、岩の上に家を建てた。雨が降り、川がやってき、風が吹き付けたが、倒れなかった、なぜなら岩に向かってその家はすえられていたからであると。また愚かな人は、砂に向かって家を建てた。そして、雨が降り、川が押し寄せ、風が吹き付けた。これは、私たちの長い信仰生活のなかで襲ってくる災難や困難を意味しているでしょう。主は、するとその家は倒れ、その倒れ方はひどかった、と言われます。
 そして、わたしの言葉を聞いて行う人がその賢い人に似せられ、山上の説教の言葉を聞いて行わない人が愚かな人であることを示されます。そして、これらの言葉を聞いた群衆は圧倒されていた。なぜなら、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として、主は語っておられたからであると山上の説教は結ばれています。弟子たちに限らず、群衆も含めてすべての人が、主イエスの山上の説教の聞き手として考えられています。私たちは、これらのお言葉を、聞いて行う者となるように、主から招かれているのです。「実を結ぶ」と聞いて「行う」というもとの言葉は同じ言葉で言い表されています。私どもは、主のこれらの山上の説教のお言葉からすぐに離れやすい弱い存在ですが、主イエスは、私たちに、ご自分の言葉を聞いて実践する者となるように、今もすべての人が招かれているのです。祈りましょう。
天の父よ、私たちの弱さをあなたは十分ご存知です。どうか、私たちが、終りの日の審判の日にあなたのみ前に臆することなく立つことができるように、普段の日常生活において山上の説教の主イエスのみ言葉によって、日々導いてください。キリストによって祈ります。




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2005/06/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)