津田沼教会 牧師のメッセージ
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説教「仕える喜び」(マルコ10:32~45)
マルコ10:32-45、2009・03・08、四旬節第2主日(典礼色―紫―)
創世記28:10-22、ローマの信徒への手紙4:13-17a

マルコによる福音書10:32~45
 一行がエルサレムに上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振っている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」




説教「仕える喜び」(マルコ10:32~45)

 本日は四旬節第2主日であります。四旬節、主イエスのの受難をおぼえるべき日に与えられています本日の福音は、マルコ10:32-45であります。いよいよ、主はご自分の受難の時が来たことを悟られ、エルサレムへと上って行かれます。そして、弟子たちの先頭に立って、進んで行かれるのを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れたというふうに、書かれています。
ところで、マルコ福音書に出て来る弟子像は、最後の最後まで、そして主ご復活の時まで、主の真意が分からず、理解できず、恐れる弟子たちであります。
そこで、主は、再び12人を呼び集めて、自分の身にまさに起ころうとしている出来事を語り始めます。「見よ、私たちは、エルサレムへと上って行く。そこで、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに渡される。そして彼らは、彼に死刑を宣告する。そして彼らは、彼を、異邦人たちに渡す。異邦人たちは、彼をあざけり、彼につばきをはきかけ、鞭打ち、殺すであろう、そして三日後に彼は起き上がる、復活するであろう。」
 しかし、弟子たちは何のことか、まったく理解できないで恐れるばかりであったのです。それどころか、まさにその時に、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネは、「先生、お願いがあるのですが、それをかなえてください」とやってきます。主が「何を私にしてほしいのか」と聞かれると、「あなたの栄光の時に、私たちの一人をあなたの右に、残りの一人を左に座れるようにしてください」と願い出るのであります。
やがて、主は栄光の王座におつきになられると、彼らは早合点していたのであります。主は、「あなた方は、何を望んでいるか分かっていない。あなた方は、私の飲む杯を飲み、私の受ける洗礼を受けることができるかと聞かれる」と、彼らは、「できます」と答えます。主は、「あなた方は確かに私の杯を飲み、洗礼を受けることになろう」と言われます。弟子たちにも、生涯苦難の道が待ち受けていることを主は教えられるのであります。私たちも、平安な道を常々願っていますが、十字架に向かう主と同様に、主に従う弟子として苦しみを受けることになると教えられるのであります。私たちも、12使徒ほどではないしても、主に従っていくとき、苦難の杯を飲み、苦しみの洗礼を受けるのであります。
しかし、主は、「しかし、私の右、左に座ることは、私にそうすることができることではなく、そのように備えられている人たちにだけ与えられるのである」と言われます。これを聞いた10人は2人のことで、怒り始めます。
すると、主は、彼らを呼び寄せ、こう語られるのであります。「あなた方も知っているように、異邦人の長と自任している者たちは、民を支配し、彼らのうちの支配者たち、すなわち大きい者たちは、民に圧政を強いている。しかしあなた方の間ではそうではないのである。あなた方のうちで大きくなりたい者はあなたがたの奉仕者となるであろう、あなた方のうちで一番になりたい者はすべての者のしもべ、すなわち奴隷となるであろう」と。「そして、なぜならば、私が来たのも、仕えられるためではなく、多くの人たちの身代金として、私の命を与えるためであるからである」と言われるのであります。
 神さまは、私たちに仕えてくださるために、身代金として、罪からの解放のあがないとして、主イエスを遣わされたのであります。
私たちは、むしろ自分が人から仕えられ、認められ、よくされることを願いがちですが、主イエスは、十字架の死に至るまで従順なしもべとして、神の御心を行われました。そして主は、私たち弟子たちもその主の道に従うことを望んでおられます。
私たちは、もろく、迷いやすく、主の教えと違った道に陥りやすい存在であります。しかし、栄光の復活の主にまみえ、真の喜びに与るためには、主が言われるように、苦い杯と洗礼に与る道を歩まねばなりません。この社会で、人に、家族に、兄弟姉妹に仕える道こそ、実は本当の喜びに与る道であります。そのことを主イエスの言葉によってもう一度確認する者となりたいものです。主は、御自分の命を、私たちに与えて下さったのですから、私たちも、精一杯、人々に仕える道を歩みましょう。
人知では到底測り知ることのできない神の平安があなた方の思いと心とを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
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2009/03/08(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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