津田沼教会 牧師のメッセージ
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説教「栄光の主イエスを仰ぐ」(マルコ9:2~9)
マルコ9:2-9、2009・02・22、変容主日(典礼色―白―)
列王記下2:1-12a、コリントの信徒への手紙二3:12-18
マルコによる福音書9:2~9
 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセとともに現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どういえばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たこと意をだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。





説教「栄光の主イエスを仰ぐ」(マルコ9:2~9)

本日は、顕現節の最終主日で、変容主日であります。神ご自身、あるいは、復活の主キリストを現す白が、聖卓の布、あるいは、ストールの色として与えられています。先ほど、歌いました主の変貌日の歌、148番の3節には、「あがないの主、約束の主、栄光の主イエスをここに仰ぐ」とありました。主の栄光が、本日の出来事において現されているのであります。本日の週報にも載せましたが、昨年から甲府教会・諏訪教会に赴任されていました平岡正幸先生が思いがけない脳内出血で倒れられ、10ほどの闘病の後、2月18日の水曜日の朝5時過ぎに、天に召されました。
 一緒に、パストラルケア・カウンセリングの研究会で学んだり、説教研究会でご一緒したりしました先生の58歳の生涯はあまりにも突然で、死と生は隣り合わせていることを、痛感させられました。先生は、私の主任牧師就任式にもはるばる三鷹教会から駆け付けて、説教をして頂いたこともあり、非常に活躍されていた先生でもあって、本当にいたたまれない気持ちでいっぱいです。私たちの生は限りがあることを改めて、感じさせられています。
 さて、本日の記事はマタイ、マルコ、ルカといずれにも記されている出来事ですが、ここでも、マルコが一番古いことを感じさせられます。主は、六日後、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に導かれます。この六日後というのは、フィイポ・カイザリアでのペトロのした信仰告白、「あなたはメシアです」という告白から6日後と考えられます。
 昔は、この山はタボル山だと考えられてきましたが、「高い山」とあり、あるいは、フィリポ・カイザリアの地から、考えて、北東に40キロほど行ったところにあるヘルモン山という2000メートル級の山ではないかとも考えられています。
そして、この日の出来事は、実際は、復活後の出来事を、主イエスの生前の時点にさかのぼらせて、考えられたフィクションではないかとの疑問も出されてきました。しかし、「6日後」、「エリヤとモーセ」、「雲の中からの声」と言った言葉使いや内容は、復活の記事とは相容れないものなのです。事実としての経験を追憶して書かれたというふうに考えられるのであります。
主は山に上ると、皆の前で形が変えられます。そして、その服は、どんなさらし職人もそんなに白くはできないほど、真っ白に輝いたのであります。そして彼らに、エリヤがモーセと共に見られ、主イエスと彼らは語り合っていたのであります。
ふいにペトロは、「私たちがここにいるのはすばらしいことです。私たちは3つの仮小屋を造りましょう。一つはあなたに、一つはモーセに、一つはエリヤに」とペトロらしい唐突な申し出をします。彼は何が起こっているのかを知らず、彼らは非常に恐れていたからであると記されています。
エリヤは、預言者たちの代表であり、モーセは律法を代表しています。すなわち、旧約聖書全体がこの二人によって示されているのであります。すると、雲が起こり、雲の中から声が成ります。「これはわたしの愛する子、これに聞け。」と。私たちは、ここにおいて、洗礼の時には主イエスに向かって起こった言葉が、弟子たちに向けて語られたのであります。
私たちは、主イエスの言葉に聞かなければならないのであります。他の者に、その者がどんなに素晴らしく見える存在であっても、キリスト以上に聞き従ってはならないのであります。主は、弟子たちと下山するとき、命じました。「人の子が死人たちの中から復活するときまで、あなた方が見たことをだれにも話してはならない」と。
そして、主イエスの教えとは、何よりも主イエスが「人の子」として苦しむメシアであるということであります。私たちを救いうる唯一の救い主は、十字架で苦しむメシアであるということを、私たちは信じなければならないのです。
平岡牧師は、58歳の生涯を終わるまで、統一教会の会員の統一教会からの脱会や、オーム真理教の信者の救出にも奔走されました。まだまだ、今からという時に、思いがけず、天に召されました。私たちも、自分の寿命がいつまでなのか、誰も知ることはできません。
しかし、私たちは、キリストによって見出された者として、それぞれの生涯を主イエスのみによる救いを証しする信仰生活を、平岡先生の走られた道と同じ道に従ってまっとうしたいものであります。先生は、主イエス・キリストに従う道のりを精一杯歩まれ、この主以外に、最終的な信頼を置ける存在はないことを証しされて、一足先に天国に行かれました。
 本日の主の変容の出来事は、旧約・新約の全聖書66巻が、救いは、主イエスおひとりにあることを指し示した一方的な神の啓示の出来事であります。主イエスを私たちの唯一の絶対信頼できるお方であり、唯一私たちの罪をお赦しになられる方であることをもう一度確認したいものです。アーメン。






 




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2009/02/22(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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