津田沼教会 牧師のメッセージ
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「罪人を招くために」(マルコ2:13~17)内海望牧師
マルコ2:13-17、顕現節第7主日(典礼色―緑―)
イザヤ書44:21-22、コリントの信徒への手紙二1:18、

マルコによる福音書2:13~17
 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
 


説教「罪人を招くために」(マルコ2:13~17)内海望牧師

 この個所は、イエスさまの招きがどのようなものであったかをよく示してくれます。
 イエスさまは「通りがかりに」レビを招かれたと書かれています。すなわち、イエスさまは「前提なしに」レビに声をかけられたのです。彼が評判の悪い徴税人の一人であることはご存じでした。しかし、彼が実際どんな人間であるかについては何一つご存じではありませんでした。彼が信仰深いかどうか、良い性格かどうか、など一切ご存じではなかったと思われます。また、レビもイエスさまについて何も知らなかったでしょう。何故なら、レビはイエスさまの説教を聞いていたわけでもなく、ただ収税所に座っていただけだったと書かれています。
 そのような人物に、イエスさまは「通りすがりに」「私に従いなさい」と声をかけられるのです。いわば資格審査なしに弟子になさったのです。相手がどのような人間であるか推し量ることはなさらないのです。相手が極悪人であるかも知れないのです。しかし、そのようなことに一切頓着されずにイエスさまは招きをなさって下さる方なのです。ここにイエスさまの招きの「凄さ」があるのです。
 私たちは、決してこんな軽はずみなことはしません。自分の友人にふさわしいかどうかは時間をかけて慎重にきめます。「人間は人間にとって狼である」という言葉は常に正しいのです。当然のことながら用心に用心を重ねます。
 「軽はずみ」という言葉を用いました。イエスさまは軽はずみだったのでしょうか。確かに、イエスさまの「選び」は失敗したかのように見えます。いざという時に、12弟子は一人残らずイエスさまを見捨てて逃げ去ってしまいました。また、イエスさまがゲッセマネの園で血の汗を流して祈っていらっしゃる時、眠りこけてしまうような頼りない集団であったのです。イエスさまにいちばん取り立てて頂いたのに自分の身に累が及びそうになると「彼なんか知らない」と言うペトロのような人物もいました。あまつさえ弟子の一人はイエスさまを銀30枚で売ったのです。役に立たないばかりか、裏切る者まで出て来たのです。人間の目から見れば、イエスさまの弟子選びは、完全に失敗したと言ってよいでしょう。しかし、イエスさまはそれでも確かにレビを招かれたのです。これは失敗ではありません。イエスさまは初めから、イエスさまから見れば全く無価値な、いやイエスさまを苦しめる人々をあえて弟子として下さっているのです。これが、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」というみ言葉の意味です。このことをしっかりと心に留めたいと思います。
 このイエスさまの招きは、当の招かれたレビからすれば本当に嬉しい出来事でした。財産はあっても、隣人との交わりの外側に置かれているこの私に!声をかけて下さる方がいたということは喜びに喜びを重ねるような出来事であったのです。ルカ福音書によると、レビは喜びの余り、「盛大な宴会を催した」ということです。レビの喜びが手に取るように分かります。時々、聖書には喜びのあまり、羽目を外すような表現があり、驚かされます。(踊るダビデ。サウル王の娘ミカルの嘲り。サムエル下6章)
 しかし、ファリサイ派の律法学者が言うように、この招きによってイエスさまは「罪人の仲間」、ある訳によると「罪人の一味」となってしまったのです。
 しかも、イエスさまは、このファリサイ派の人たちの非難を聞いて、大胆にも「私は罪人を招くために来たのだ」とはっきり断言されたのです。これはファリサイ派の律法学者にとっても、レビにとっても、前代未聞の出来事でした。
 ファリサイという言葉は「分離する」という意味です。きちんと律法を守り、良い生活をして罪人の生き方から「離れる」という信条に生きた人々です。立派であり、また思い上がった人々です。
 しかし、大なり小なり、私たち人間全部が行っている生き方です。「私はあそこまでは行っていない」と他人を低く見ることでやっと安心して生きているのが人間です。決して私たちは、ファリサイ派の人々より良い心を持っているなどと言えないのです。彼らを非難する資格はありません。
 ここで思いを深めてみたいと思います。ここが肝心な点です。私たちはこのたとえを聞きながら、自分をどちら側に置いているでしょうか。
 私たちは自分をレビのように喜び踊る気持ちで聞いているでしょうか。イエスさまはこの罪深い私にも招きを与えて下さっているという喜びのうちに聞いているでしょうか。
 私たちは自分たちをファリサイ派の人々の方に身を置いていることを知って愕然とすることがあるのではないでしょうか。私たちこそ罪深いファリサイ派なのです。
 ダビデが預言者ナタンから「人の物を奪い取る金持ち」の話を聞いたとき、「そのような者は死罪にすべきだ」と激怒しました。しかし、預言者ナタンに「その男はあなただ」と言われて自分の犯した罪に震えあがったという物語を思い起こします(詩編51編)。
 私たちは「罪人」という言葉の意味を道徳的な罪と考えないようにしたいと思います。私たちは人に後ろ指を指されるようなことはしていないと思っています。確かにそうでしょう。
 しかし、私たちが自らの心の奥底を見つめるならば、私たちの心が自己に向かってねじれていることが分かります。「罪を犯したから罪人になるのではなく、罪人だから罪を犯す」というルターの言葉は正しいのです。私たちの心は自己中心にしか働かないのです。このような私たちが、神さまの前で真摯に自分の心と向き合うなら、私たちにはイエスさまの招き以外に救いがないことに気付きます。ところが、私たちは「来る日も来る日も神さまを必要としている訳ではない」とうそびきながら日々安閑と過ごしています。
 あるいは神さまの顔を避けて生きています。「神さまは『立ち帰ること』(悔い改め)を願って招いてくださっているのに、神さまから逃げ出す私だった」とルターは後年自分を振り返っています。
 そのような私たちにイエスさまは資格審査抜きに招いて下さっているのです。素直にイエスさまの罪人への招きに従いましょう。イエスさまは罪人と共に歩み、弟子たちがすべてイエスさまを見捨ててしまった時も、十字架上で取り成しの祈りをして下さった方です。イエスさまが「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた時、その「彼ら」のなかに「私」がいることを尽きざる感謝をもって受け入れましょう。私たちこそ招かれた罪人なのです。私たちは、罪人でありながら、同時にイエスさまの十字架の愛、赦しの恵みの中で生きているのです。素晴らしいことではありませんか。罪人を招くイエスさまの愛は前代未聞の出来事なのです。
 ところで、マルコは好んで「皆」とか「全住民」という言葉を用いています。これはイエスさまのなさる一つ一つの出来事がどんなに大きな出来事であり、全世界に届いたということを表現したかったのでしょう。パウロも「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイヤ州に響き渡った」とテサロニケの信徒への手紙(一1:8)で述べています。
 このような大きな出来事を私たちは聞いているのです。私たちがこの罪人を招くイエスさまのみ言葉をしっかりと心に留め、その喜びに生きるなら、それは全世界に響き渡る出来事なのです。「愛」とか「喜び」は伝染するものです。「伝染する」ということは、いつの間にか風邪をひいてしまうような出来事です。これは悪い例かもしれません。しかし、伝道というものは宣伝ではなく、み言葉に力そのものがいつの間にか全世界に響き渡るのです。私たちは小さな群れです。罪人を招くために、この私の所にまで来て下さったイエスさまに感謝する喜びは、必ず隣人の心にも喜びを与えて行きます。生きて働く主イエスの愛の証人として生きて行きましょう。
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2009/02/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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