津田沼教会 牧師のメッセージ
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「人の子の罪を赦す権威」(マルコ2:1~12)
マルコ2:1-12、2009・02・01~12、顕現節第6主日(典礼色―緑―)
ミカ書7:14-20、コリントの信徒への手紙一9:24-27

マルコによる福音書2:1~12
数日後、イエスが再びカ
ファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。



説教「人の子の罪を赦す権威」(マルコ2:1~12)
 
本日の記事の部分から、律法学者あるいは、ファリサイ派との主イエスの闘争が始まります。そして、それは、3章の6節では、主イエスをどのようにして殺そうかというヘロデ派の人々との相談にまで及ぶのであります。
 本日の出来事について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。「そして、数日後、彼が再びカフェルナウムへとやって来た時、彼が家にいることが聞かれ・知れ渡る」と本日の記事は始まっています。そして、大勢が集まったので、戸口の辺りまで、隙間もないほどになった、そして、主イエスはみ言葉を語っておられた、すなわち、良い知らせを語っておられました。
そして、4人が中風の人を担いでやってきますが、群衆のゆえに、主に近づくことができなかったので、彼らは屋根をはがし、泥の部分を掘って、彼のいたあたりにその床、マットレスか藁布団のような粗末なものを、彼をそこに伏させたまま、つりおろしたのであります。彼らの信仰、彼らには、あるいはその人の親が含まれていたかもしれませんが、中風の人自身の信仰をも含めて、5人の主への絶対的な信頼を見て、主は言われるのであります。
「子よ、あなたの罪どもは赦される。」罪とは、神との関係での、あるいは、人間的な関係でのあらゆる義からの乖離のことであります。
 ところが、そこに、律法学者たちのある者たちが座っていて、彼らの心の中で論じていたのであります。「このようになぜ、この者は、語るのか。彼は冒瀆している。神おひとりの他には、だれが、罪どもを赦すことができるのか。」
主イエスは、彼らが彼らにおいて論じていることに、すぐに彼の霊でもって気づいて、言われます。「あなた方はあなた方の心において、なぜそれらのことを論じているのか。どちらが、たやすいことか、中風の人に、あなたの罪どもは、赦されているということか、それとも、こう言うことか、起きてあなたの床を担ぎ、歩きまわりなさいと。」
 さて、二つのうちでどちらが容易なことなのでしょうか。表面的に見れば、「あなたの罪どもは、赦されている」と言うことの方がたやすいでありましょう。なぜなら、罪どもが赦されているかどうかは、証明できないことだからであります。
それに対して、「起きよ、あなたの床を担げ、そして歩きまわれ」ということは、その奇跡が成功するか失敗するかのテストをするという危険を負うことになりますから、そう言うことの方が単純に考えれば難しいと考えられます。
 しかし、主は、「人の子が罪を赦す権威を持っていることをあなた方が知るように」と言われてその中風の人にお語りになります。「私はあなたに言う、起きて、あなたの床を担ぎ、あなたの家へと出て行きなさい」と。するとすぐに、彼は起き上がり、皆の前を床を担いで出て行った。そして、これを見たすべての者は、驚いて、こう語りながら、神をほめたたえた、すなわち、「このようなことは、私たちはかつて見たことがない」、と本日の記事は終わっているのであります。
 さて、主イエスは、「私が、あなたの罪どもを赦す」とは言っておられません。「人の子」が、地上で罪を赦す権威を持っていると言われているのであります。「人の子」とは、だれのことでありましょうか。「人の子」とは、ダニエル書7章13、14節に出て来る称号であります。「人の子」とは、単なる人間を指す場合もありました。また、それは、キリスト教の共同体を指す、すなわち教会が赦す権威を持つとの説もあります。しかし、主イエスは、御自分のことを、メシアだと意識して、ダニエル書7章で出て来るように、「人の子のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた」と言われているその「人の子」を御自分にあてはめて使われたと考えることができます。
 「人の子」として、メシアとして、主イエスは、中風の人に「あなたの罪どもは、今赦される」ということがおできになる唯一のお方であります。本日のミカ書にありましたように、罪を赦すことのできる方は、旧約聖書では本来、主なる神のみでありました。しかし、「人の子」メシアとして、主イエスはこの地上で罪を赦す権威を与えられており、本来、天において神の専権である罪の赦しを私たちのために媒介することがおできになるのであります。そしてその「人の子」は、十字架につけられ、苦しまれるお方でもあります。
 祈りましょう。
天の父なる神さま。
あなたの独り子であるみ子イエスが、人の子として、この地上で私たちの罪を赦すためにおいでくださったことを感謝いたします。私たちの遭遇するさまざまな病が癒されると共に、それ以上に私たちの罪どもが赦され、霊的な健康が回復されますように。そして私たちをあなたの望まれる姿にしてください。キリストによって祈ります。アーメン。

 
  
 
 
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2009/02/08(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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