FC2ブログ
津田沼教会 牧師のメッセージ
「主に自らをゆだねよ」(マタイ6:24~34)
マタイ6:24-34、2005・06・12、聖霊降臨後第4主日(緑)
イザヤ書49:13-18、コリントの信徒への手紙一 4:1-13

マタイによる福音書6章24節~34節
 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富に仕えることはできない。」

 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」



説教「主に自らをゆだねよ」(マタイ6:24~34)

 聖霊降臨後第4主日を迎えました。私たちは、このところ、マタイによる福音書5章から7章にかけての「山上の説教」と呼ばれる箇所から、福音を与えられています。そして、本日の箇所は、マタイ6章の24節から、34節までであります。24節は、その前の5章19節からつながっています。そういう視点から、25節から34節までも、一貫して捉えることができるのではないかと思います。すなわち、「弟子たちと所有の問題」として、本日の箇所を見ることができるのであります。ですから、少し遡って、5章の19節から、見ることにしましょう。
 主イエスは、まず、「地上ではなく、天に宝を積むように」と言われます。地上では、虫が食い、さびが生じる。さらに、盗人たちが、壁に穴を開け、奪うことがある。しかし、天に積まれた宝は、そんな心配はない、と言われるのであります。天に宝を積むとは、神のご意志に従った生き方やふるまいをするということであります。それは、朽ちることなく、天にいます神による報いが約束されているのであります。そして、「あなたがたの富があるところにあなたがたの心もある」、と言われています。
 続いて、主の言葉は、こうであります。「あなたがたの目が澄んでいれば全身が明るい。もし、それが濁っていたら、その体の暗さはどれほどのものであろうか」、と。これは、寛大な、分け惜しみしない心と、けちで邪悪な心とを指しているとも考えられますし、むしろ一意専心、神に向かっての、分かたれるところのない従順、忠誠を表しているとも考えられます。
 そして、三番目の言葉として、本日の日課である24節が来ます。主は、「誰も、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一人を憎み、もう一人を愛し、あるいは、一方に献身・没頭し、他の一方を軽蔑するから」であると言われるのであります。そして、あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできないと、本日の日課の最初の節は来ているのであります。この富とは、マモンという言葉で、それ自体悪い意味を必ずしも持っているものではありません。しかし、私たちは、神に従順となり、忠誠を尽くしていくか、それとも、別の魅力あるもの、富とか財産とか、わたしたちをいろいろな形で虜にしてしまうものによって支配されるか、いずれかなのであります。私たちの目と心がまっすぐに神の方向を向いているか、それとも、別のものによって導かれ、支配されているか、私たちの生活はそのいずれかなのであります。
 そして、25節から34節までが、また、一つの部分をなしているのであります。あなたがたに、それゆえ、私は語る、と始まっています。「あなたがたは、命のことで何を食べ、何を飲み、体のことで何を着るかと思い悩むな」、と言われるのであります。本日のここから始まる主イエスのお言葉によって、いろいろな生き方が、歴史上生まれてきました。労働を軽視する者も出ました。また反対に、修道院のように、労働を、祈りと共に重んじる生き方も生まれました。はたして、主イエスのこれらの言葉をお語りになったその目的は何だったのでしょうか。そして、私たちは、現代、今の時代にあってここをどう受け取っていけばよいのでしょうか。
 主イエスは、言われます。命、あるいは霊は、食物にまさり、体は、衣服にまさると。
そして、そのことの例示として、空の鳥たちや、野の花どもをあげられます。空の鳥は蒔かず、刈り入れもせず、蔵におさめることもしない。しかし、あなたがたの天の父は、彼らを養っておられる。あなたがたが、思い悩んだからといって、ほんのわずかでも、寿命をのばすことができようか。また、野の花どもをよく観察してみるがよい。それらは、労苦もせず、自らつむぎもしない。しかし、私は言っておく。全栄光におけるソロモンも、それらのひとつほどにも着飾ってはいなかった。明日は炉の中に燃料として投げ込まれるの野の草でさえ、神はこのように装っておられるなら、あなたがたに対してはなおさらのことではないか、信仰のほとんどない者よ、と言われます。そして、あなたがたは何を食い、飲み、着ようかと思い悩むなと言われます。この「思い悩む」とは、もともと、心が分かたれる、入り乱れるという意味であります。主は、それに対して、天の父はあなたがたがそれらすべてを必要としていることをご存知である。 だから、「あなたがたはまず、神の国とその義とを求めよ」と言われるのであります。神のご支配に対して、また神の義すなわち、神のご意志に従順に従うことこそ、最優先に求めなさい。そうすれば、それらのものはすべて、添えて与えられるであろうと、宣言なさるのであります。
 不況の先行きの見えない時代を私たちは送っています。特に若い人たちは就職も困難な時代であります。しかし、神のご意志、そしてそれに従った正しい生活を送るならば、神なる主は、必要なものを備え、道が開かれると、主イエスは、現代のわたしたちに向かっても語っておられます。
 そして、最後に、「それゆえ明日のことを思い煩うな。明日は明日自らが思い悩むであろう。一日の苦労は一日で十分である」、とマタイには結語が記されているのであります。これは、過度の不安を持って明日のことを、心配するのではなく、むしろ今日一日を主にゆだねて精一杯生きなさいという勧めであります。過度の煩悶からときはなたれて、主が道を備えてくださることに信頼して、新しい1週間へと送り出されていきましょう。祈ります。
天の父なる神さま。
 私たちは、自分に与えられている持ち物や時間やそれぞれの賜物を用いて、すべてを、あなたにゆだねて生きる新しい生き方を主イエスによって示されまして感謝いたします。
 どうか、煩悶する生活から、ときはなたれて、あなたのご意志にかなった生活をおくらせてください。キリストによって祈ります。アーメン。








スポンサーサイト
2005/06/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)