津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスも受けた洗礼」(マルコ1:9~11)
マルコ1:9-11、2009・01・11、主の洗礼日(典礼色―白―)
イザヤ書42:1-7、使徒言行録10:34-38

マルコによる福音書1:9~11
 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて〝霊〝が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。



説教「主イエスも受けた洗礼」(マルコ1:9~11)

 本日は、主の洗礼日の礼拝であります。東方教会、オーソドックスのギリシャ正教やロシア正教においては、主の洗礼日は、三大祝日の一つであるそうであります。
本日の記事、マルコ1:9-11では、主イエスは、他の者たちにはわからない、ひそかな神顕現、エピファニーを経験しているのであります。
マルコ福音書は「『神の子』イエス・キリストの福音の初め」と始まっていますが、本日の主イエスの洗礼は、主がご自分が「神の子」であることを、ご自分の目と耳を通して証明しているのであります。
本日の短い記事をもう一度思い起こしてみましょう。元の文、原文をみますと、「そして」、それらの日々に、おいて、成ったことには、イエスはガリラヤのナザレからやって来られた、そして、ヨルダン川へと、ヨハネによって、洗礼をお受けになった。「そして」、水から上がられるとすぐに、天どもが裂け、鳩のような霊が彼へとくだってくるのを見られた。「そして」、声が天から成った。「あなたは、私の息子、愛する者、あなたにおいて私は大いに喜んでいる。」こういう短いが、「そして」という言葉で3節をつないで、簡潔な文によって、主イエスの洗礼の記事がまとめられているのであります。
主イエスだけが、洗礼の時に、天が裂け霊が鳩のように、そのような形でなのか、あるいは鳩のように柔和に、静かに、創世記の1章2節の時のように、海の表をうごめいていたのか、霊が主イエスに向かって、くだってくるのを御覧になり、次には、声が天から成ったのであります。「あなたは私の子、愛する者、あなたにおいて私は大いに喜んでいる」という神の声は、主イエスが、イスラエルの王であることを示しているのか、苦難のしもべであられるのか、それとも、犠牲となることを示しているのか、いずれとも考えられます。詩編の2編の7節からか、イザヤ書42章の1節からか、創世記22章のアブラハムが独り子イサクをささげようとした出来事からか、主イエスがいかなるお方なのかを、本日の主イエスの洗礼の出来事は示しているのであります。
主の洗礼において、久しく途絶えていた神との交流が回復され、示されたのであります。私たちの洗礼は、この主イエスの洗礼を通して、私たちも神の子供とされるものであり、本日の祈りにもありましたように、神に喜ばれ、み心に適った命を生き、永遠の命に与ることができるものとされているのであります。
今は年の初めで、皆様も年賀状のやりとりで忙しかったことでしょう。私がもらったお返しの年賀状に、ある青年の方が、「教会に行っていると、一人で生きているのではないことを知らされます」というような率直な言葉を一文記しておられました。私たちは、教会員は父と子と聖霊のみ名による洗礼を受けています。主イエスも私たちと同じように洗礼を受けられたのであります。主は罪なきお方であるので、主も洗礼を受けられたということは、初代教会の人たちにとって実際には困惑させられる出来事でありました。しかし、マルコは、当然のことのように、主イエスの洗礼を記し、しかし、その時の出来事、神顕現の主イエスにおいて経験せられた秘められた出来事をはっきりと記しているのであります。
さて、パウロも言っているように、私たちは、洗礼により、キリストと共に死に、キリストと共に生きる者とされており、もはや、男も女もなく、奴隷と主人の区別もなく、キリストにあって一つとされているのであります。主イエスの洗礼の時に、天が裂け、久しい時代、疎遠になっていた神と人との間の親しい交流が、回復されました。
キリストの洗礼の時に、父なる神は、「あなたは、私の息子、愛する者、あなたにおいて私は大いに喜んでいる」と天から声が成り、また、天が割かれて、霊が鳩のように、主に向かってくだるのを主は御覧になりましたが、このとき以降、断絶されていた父なる神との親しい交わりが、私たちにも与えられているのであります。
と同時に、その主は、苦難のしもべでもあり、十字架につかねばならないことも、このときの神の声によって示されたのであります。本日礼拝に出ている私たちの多くは、すなわち、教会員の皆様は、洗礼を受けていますが、その方々は、本日の主イエスの洗礼ともつながっていること、また、求道者の方々も、この洗礼に招かれていることを常に覚えていきたいものです。
祈りましょう。
天の父なる神さま。私たちがあなたのみ心に適った生活ができますように、私たちを憐れんでください。そして、どのような困難や試練にも打ち克って生きていけますように、聖霊の導きをお願いいたします。この2009年の一年間の信仰生活を、あるいは、求道中の方々には、あなたに導かれ、招かれるその道を、それぞれ祝福してくださり、辿らせてください。キリストのみ名によって、祈ります。アーメン。
人知では到底測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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2009/01/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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