津田沼教会 牧師のメッセージ
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「新しく創られる私たち」(ヨハネ2:1~11)
ヨハネ2:1-11、2008・12・28、降誕後主日(典礼色―白―)
イザヤ書62:1-5、コロサイの信徒への手紙1:15-20

ヨハネによる福音書2:1~11
 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。



説教「新しく創られる私たち」(ヨハネ2:1~11)

 本日は、降誕後主日であります。クリスマスは、来年の1月4日の顕現主日の前日まで続きます。このクリスマスの時に、本日、与えられている福音は、ヨハネ2:1-11であります。三日後に、と始まっていますが、その前の文を見ますと、その翌日という書き出しが三回続いてあり、その三日後は、7日目を意味するのでありましょうか。私たちが新しく創造されることを暗示しているのでしょうか。それとも、三日後に復活なさる主イエスの出来事を暗示しているのでしょうか。本日の出来事をもう一度思い起こしてみましょう。
三日後に、主イエスの母が、ガリラヤのカナにおける婚礼、結婚式があって、そこにいた。ヨハネ福音書では、イエスの母と書かれていて、マリアという名前では出てきません。 
さて、この婚礼には、主イエスも呼ばれていて、彼の弟子たちも共にいたとあります。主の親戚の結婚式であったのでしょうか。そのとき、婚宴の席で大事な喜びのために、用いられるぶどう酒が足りなくなるということが起こったのであります。主の母は、それを知って、「彼らはもうぶどう酒を持っていません」と語ったのであります。主は、「女の人よ、あなたと私と何なのですか、何で関わろうとするのですか。私の時はまだ来ていません」とだしぬけに、答えるのであります。私の時とは、主イエスの受難と十字架の時であります。それが、主が栄光を受ける時でもあると言われるのであります。しかし、主は、母の伝えた出来事を無視なさったわけではありませんでした。また、主の母も「この人の言うことは何でもその通りしてください」と従順に答え、これは私たち、主の弟子の模範的な従順を示しています。
さて、そこに、ユダヤ人の清めの慣習のための石の水がめが6つ置かれていました。いずれも、2ないし3メトレテス入るものでした。1メトレテスはほぼ40リットルですから、少なくとも全部の水を合わすと、500リットル以上は入るわけです。
主は、奉仕する者たち、「ディアコノス」に命じて、水がめの縁まで、上まで満たすようにと言われました。そして、彼らが井戸から汲んで来たのでしょう、一杯に満たすと、今度は主は、それを宴会の世話役、支配人のところに持って行くように命じますと、彼らは運びます。そして、世話役が味を確かめると、その水は、上質のぶどう酒に変わっていたのであります。7つに足りない6つの水がめは、主イエスこそが、ユダヤ教を完成する終末的な救い主であることを暗示しているのかもしれません。
しかし、世話役は、それが、どこから来たものか、知らなかったので、花婿を呼んで言いました。「だれでも、はじめに良いぶどう酒を出し、人々が酔いが回ったころに、質の落ちるものを出すのに、あなたは、今まで良いものを取っておいた」と言って、花婿をほめたのでした。この最初のしるしを、主イエスは、ガリラヤのカナで行いました。そして、それは、弟子たちと、わずかな奉仕人たちだけが知ったにすぎません。彼の最初の弟子たちはこれを見て、主を信じ、主は栄光を現されたのであります。
主イエスは、都のあるユダヤにおいてではなく、ガリラヤの小さな町カナにおいて最初のしるしを行われたのであります。私たちは、この奇跡の出来事を本日の福音を通して知らされています。しるしは、主イエスを救い主として信じるための手段でありました。私たちは、しるしをなさる超越的な神を、またそのみ子イエスを、聖書を通して知らされています。最初は信じられなかったし、理解できなかったけれども、今はその同じ奇跡を見ないでも信じることのできる信仰を与えられています。「人となられた主イエス・キリストによって、私たちは、あなたの命、御神の命に生きる者とされています」と本日の特別の祈りでは祈られています。そのように、私たちは、水から変えられた喜びのぶどう酒を主によって知らされている新しい人に変えられています。新しいぶどう酒は新しい革袋にと主イエスは言われましたが、私たちは、主イエスによって変えられた新しいぶどう酒によって、新しく創られた者として、この1年を歩み始めたいものです。アーメン。


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2008/12/28(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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