津田沼教会 牧師のメッセージ
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「あけぼのの光が」(ルカ1:67~79)
ルカ1:67-79、2008・12・21、待降節第4主日(典礼色―紫―聖餐式あり)
ゼファニア書3:14-17、フィリピの信徒への手紙4:2-7

ルカによる福音書1:67~79
 父ゼカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。
  主はその民を訪れて解放し、
  我らのために救いの角を、
  僕ダビデの家から起こされた。
  昔から聖なる預言者たちの口を通して
      語られたとおりに。
  それは、我らの敵、
  すべて我らを憎む者の手からの救い。
  主は我らの先祖を憐れみ、
  その聖なる契約を覚えていてくださる。
  これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。
  こうして我らは、
  敵の手から救われ、
  恐れなく主に仕える、
  生涯、主の御前に清く正しく。
  幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
  主に先立って行き、その道を整え、
  主の民に罪の赦しによる救いを
      知らせるからである。
  これは我らの神の憐れみの心による。
  この憐れみによって、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
  我らの歩みを平和の道に導く。」




説教「あけぼのの光が」(ルカ1:67~79)

皆さん、クリスマスおめでとうございます。本日は、待降節第4主日ですが、クリスマスの日、12月25日に近い日曜日として、クリスマス主日としても祝っています。私たちは、今年は教会歴のB年で、マルコ福音書を中心としながら、新しい年を待降節から、新たに始めていますが、特別な場合には、ルカ福音書や他の福音書も与えられるのであります。そして、B年としての待降節第4主日の本日は、ルカの1:67-79が備えられているのであります。いわゆるベネディクツウスとも言われるザカリアの賛歌と言われる部分であります。ザカリアは、神殿で奉仕の任にくじで当たったとき、神殿内で天使のお告げをます。ザカリアも、その妻のエリサベトも、既に年をとっていたのですが、あなた方に男の子が生まれ、その子はメシアに先立つエリアのような存在になると告げられたのでありますが、ザカリアは、その時、信じることができなかったので、それから、男の子が生まれるまで、ものが言えなくされたのであります。
しかし、お告げの通り、男の子が生まれてまもなく、割礼をその子に施す時が来て、村里の人々が集まり、その子の名を父と同じザカリアとつけようとしたとき、ザカリアは、木板にその子の名はヨハネ、すなわち、「主は恵み深い」という天使から授けられた名を書いて示し、それから、ものが言えるようになって、そのことが、ユダの山里中にうわさになったのでありました。
その時に、父ザカリアは、聖霊に満たされて、ザカリアの賛歌を歌ったのであります。「ほめたたえられよ、イスラエルの主なる神は」、と始まるこの賛歌は、イスラエルの主なる神をたたえる前段の1:68から1:75までと、洗礼者になるヨハネに係る1:76から79までにわけることができます。
前段では、ザカリアは、イスラエルの神は、神のしもべダビデの家、子孫に救いの角を起こされたといいます。それは、メシアが与えられるということであります。主なる我らの神は、父アブラハムに誓った誓いを忘れることはなく、我らの敵どもを彼らの手から救ってくださる、とイスラエルの歴史を顧みながら、歌うのであります。新共同訳の訳文では、わかりやすく、短く文が句読点で切られていますが、もとの文をみると、一気に歌ったかのように、長い文でつながっているのであります。イスラエルの民、我らがいかに敵ども、我らを憎む者たちによって苦しめられたか。しかし、み民イスラエルに与えられた救いの約束を、忘れることはなく、ついに、メシアを私たちに与えられた。私たちは、恐れることなく、清く正しく生涯にわたってあなたに仕えますと、前段では主をほめたたえているのであります。
それから、自分たちに与えられた、将来、洗礼者ヨハネとなるわが子について、歌うのであります。お前は、いと高き方の預言者と呼ばれ、主の前に道を備えるために、後に来られるその方の前を進む者となるであろう。それは、その民に対して彼らの罪の赦しにおける救いの知識を与えるためである。そして、私たちの神の憐れみの心のゆえに、私たちに天から、すなわち、上から、「あけぼのの光」、夜明け、メシアの到来が私たちを訪れるであろうと、歌います。「あけぼのの光」とか「若枝」は、旧約聖書ではメシアの到来に関わり用いられる表現でありました。
さて、そして、闇において、死の陰において住んでいる者たちに対して、それは現れるであろう。そして、私たちの足を、平和の道へとまっすぐに正すだろうと歌い終えています。
これこそが、クリスマスの出来事ではないでしょうか。私たちは、かつて、罪と暗黒の中に座している者でありました。しかし、そこに、天からの、上からの暁が、夜明けが、私たちを照らしてくれたのであります。メシアは、特に新約聖書になると、あけぼのの光とも、明けの明星とも、太陽とも言い表わされています。私たちは、ザカリアと共に、このベネディクツウスを歌うことができます。このメシア、キリストのご降誕によってこそ、私たちの罪は赦されるのであります。
そして、主のご降誕によって、私たちは、罪から解き放たれ、真に自由な生き方ができるようにされているのであります。この方によらずしては、私たちは、闇と死の影に座している、うずくまっている哀れな存在にすぎません。
洗礼者ヨハネは、村里中の人々によって、この子はどんなにすばらしい者になるだろうかと評判になりました。主イエスは、馬小屋の中で、人々に知られることなくお生まれになり、わずかに、羊飼いや占星術の学者たちによって、訪れられ、拝まれたのにすぎませんでした。
私たちは、新しい一年を、この主イエスのご降誕の意味を考えつつ、自分の罪に死に、自分に与えられた洗礼を忘れることなく、また、教会の聖卓に月ごとに、いや、毎週集められながら、主イエス・キリストの体とその尊い血に与かって、恵みに満ちた一年を送りたいものであります。祈りましょう。
天の父なる神様。
クリスマスが今年もやってきました。み子・主イエス・キリストは、私たちの暗黒と死の影に上より輝き出でたあけぼのの光、明けの明星です。あなたの不思議なご計画が実って、私たちは、新しい生涯を日々歩むことがゆるされています。しかし、私たちは弱く、罪に陥りやすく、日ごとに心と言葉と行いによって、み前に罪を犯すことが多い者です。
どうか、み子によって、真の平安の道へと私たちの足をまっすぐにしてください。そして、出会います全ての人に、あなたにある平安と幸福とを告げ知らせる福音の使者とならせてください。新しい一年、あなたの顧みと堅い約束に信頼して歩む者としてください。
キリスト・イエスによって祈ります。アーメン。

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2008/12/21(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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