津田沼教会 牧師のメッセージ
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「救いを指し示す長い指」(ヨハネ1:19~28)内海望牧師
ヨハネ1:19-28、2008・12・14、待降節第3主日(典礼色―紫―)
イザヤ書61:1-4、テサロニケの信徒への手紙5:16-24

ヨハネによる福音書1:19~28
 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
  『主の道をまっすぐにせよ』と。」
 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。



説教「救いを指し示す長い指」(ヨハネ1:19~28)
 ルーテル教会、聖公会は聖書日課を用いて礼拝を致します。日課表を用いると、自分の好きな聖書の個所を読むのでなく、「与えられたみ言葉を聴く」という姿勢で礼拝に出席するためです。牧師も自分の聖書解釈より前に、与えられたみ言葉を聴くという姿勢を取らされます。非常に難解な個所が与えられる時もあります。そこで、牧師の苦闘が始まるわけです。しかし、これで、説教が「み言葉中心」で、社会評論や、自分の思想の開陳という危険から守られているということは確かです。
 なぜ、このようなことを初めに述べるかというと、今日与えられた日課は、先週と同じように洗礼者ヨハネについての記事だからです。悩むところです。
 さて、ルターはアドベントに好んで「ヨハネの指し示す長い人差し指」について説教したと言われます。
 ヨハネの指は、自分でなく他者を示すために用いられています。今日の日課では、「私は・・・ではない」という否定の言葉が3度も出てきます。「私はメシア(キリスト)ではない」「私はエリヤではない」「私は預言者の一人ではない」とヨハネは、はっきり断言します。イエスさまの荒れ野での誘惑を持ち出すまでもなく、私たちはどうしようもなく自分の栄誉を追い求めます。人から尊敬され、褒められることを喜びます。仕える者より仕えられる者になりたいのです。そして、それが高じると、やがて自分は偉い人間で善悪を知る者となり、人々の上に君臨し、人を裁く者となるのです。これは自分を神さまと同格とする恐ろしい傲慢です。これこそ、アダムとイブもそうでした。まさに原罪です。
 メシア、エリヤ、預言者と人々から呼ばれることは、当時の人々にとって最も大きな栄誉です。しかし、ヨハネは今、徹底的に栄誉を拒否しています。ただ、救い主を示す「声」、ルターによると「長い指」に徹しているのです。ここに、ヨハネの生き方を見ます。説教者は、人物も、名前も重要視されません。ただ救い主を指し示す声なのです。しかし、残念ながら、私たちはこの誘惑に打ち勝てないのです。
 ここで、ルターがことさらにヨハネの「長い人差し指」と名付けたのには理由があります。それは、人間が自己神格化から、目を離すためには、ずっと先にある本当の救いに目を向ける必要があるからです。それほど、私たちは自己中心的生き方にしがみついているのです。
 ところで、聖書には次のような言葉があります。「望みがない所で、なおも望む」(ローマ4章18節(279ページ))。ここを「あらゆる希望に逆らって希望し」と訳した人もいます。意味深い訳文だと思います。
 私たちは多くの希望、あるいは救いを求めて生きています。この世界には、私たちを惹きつける数多くの希望の光があります。しかし、それらはほとんどただ自分の欲望の実現を願っているにすぎません。それを、私たちは救い・希望と錯覚しているのです。
 そのような希望が全部失われても、なお本当の希望がある、あるいは、それら全部に逆らって本当の希望に目を向けさせようとするのが、「ヨハネの長い人差し指」なのです。私たちは、あまりにも多くの希望を身の回りに置いているので、はるか地平線から射し込む明けの明星、「大いなる光」、本当の希望を見失っているのです。ですから、「長い」「ながーい」と発音すべきかもしれません。
 しかし、「本当の希望」とは何でしょうか。ヨハネは洗礼を授けていました。当時、ユダヤ教だけでなく、多くの宗教で「水に浸る」という儀式は行われていました。それは、「洗い清める」という意味でした。日本でも「斎戒沐浴」して、神さまの前に出る、という宗教的な習慣があります。
 ところが、ヨハネの洗礼は「悔い改め」「罪の赦し」を指し示していました。そして、イエスさまがそれを完成させる方であるというのです。「聖霊で」という言葉がそれを示します。
 「悔い改めとは何か心の中で新しい決断をするというようなことではなく(お正月や、
学期の始めなどに)、全生涯にわたる完全な方向転換」を意味します。つまり、自分の栄誉に仕える自己絶対的人間から、神さまの僕として生きる生き方への転換です。主人が「私」から「神さま」へと変わるのです。古い自分が死に、新しい私が生まれることなのです。
 洗礼は「清めの儀式」ではなく、「水の中に沈められること」なのです。ルターは、小教理問答書の中で、「古い自分が溺れ死ぬことだ」と語っています。パウロもまた、「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」と語っています。
 それだけではありません。パウロは、更に「わたしたちは、古い自分がキリストと共に十字架につけられ、キリストと共に復活したのだ」と続けるのです。
 つまり、洗礼とは、「古い自己中心的な私が溺れ死に、キリストと共に新しい私が生まれる」という出来事なのです。「罪の赦し」が与えられる出来事です。ここにおいて、あの「生涯にわたる方向転換」という「悔い改め」も完成するのです。
 「キリストに結び付けられ、新しい人間として生きることが許される。」これより、喜ばしい福音はありません。私たちは誰でも「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい」という切なる祈りを持っています。しかし、残念ながら、私たちは自分の力で自分を新しくすることはできません。どんなにこすっても、洗っても、罪は私たちの本性にこびりついて拭い去ることはできないのです。しかし、イエスさまは、その十字架の死によって死すべき私たちと共に死に、古い私を滅ぼし、新しい復活の命を与えてくださったのです。
 ヨハネは今、そのようなイエスさまの福音を、その長い指によって指し示してくれているのです。「主の道をまっすぐにせよ」というみ言葉に従って、その長い人差し指で、私たちの歩むべき道を示してくれているのです。私たちはさまざまな安っぽい希望を追い求めることを止め、目を上げて、ヨハネの指し示す彼方をまっすぐに見つめ、しっかりと歩もうではありませんか。悔い改めと復活の光に目を向けようではありませんか。
 私たちは、クリスマスを目の前にしております。イエスさまが、私たちの罪を負い、私たちを新しい人間として復活させる方として、この地上に来られ、私たちと共に歩んでくださることを感謝するときです。クリスマスを私たちの復活を感謝する時として喜び迎えましょう。





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2008/12/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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