津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神に心を向けよう」(マルコ1:1~8)
マルコ1:1-8、2008・12・07、待降節第2主日(典礼色―紫―聖餐式あり)
イザヤ書40:1-7、ペトロの手紙二3:8-14

マルコによる福音書1:1~8
神の子イエス・キリストの福音の初め。
 預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現われて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」




説教「神に心を向けよう」(マルコ1:1~8)

待降節も第2主日となり、本日は、今年与えられている中心の福音書、マルコ福音書の1:1-8が福音として与えられています。これは、マルコ福音書の序文であります。その序文は、どこまでで、切るべきか諸説があり、マルコ1:1-14までを考える人もいます。その後から具体的な宣教が始まっているからです。序説は、福音書の全体の冒頭にあっていずれの福音書にとっても非常に大切な部分であります。マタイもヨハネも、ルカも初めの部分は非常に力を入れて書いています。また、同じように、終りの部分も重要であります。
さて、本日の日課1:1-8は、洗礼者ヨハネの登場が中心となっていますが、それは、1:4-8で具体的になってきます。最初の書き出しは、非常に印象的であります。「神の子、イエス・キリストの福音の初め」となっています。創世記は、「初めに、神は天と地とをお造りになった」とありますし、ヨハネ福音書は、冒頭に「初めに言葉があった」とありますが、マルコは、主イエス・キリストが神の子であって、そこから、福音、すなわち戦勝の知らせ、良きニュースが新たにはじまるというのであります。しばしば、言いますように、4つの福音書の中ではマルコが一番古く書かれたと考えられているのであります。旧約聖書で、長らく待たれた「救い主、メシアの福音」がここからはじまったとマルコは宣言するのであります。そして、旧約聖書から引用し、マルコは、預言者イザヤにおいて、こう書かれていると続けるのでありますが、それらの預言はイザヤだけではなく、出エジプト記やマラキ書に出ているみ言葉も併せて用いられているのであります。
そして、マルコ福音書は出だしに、「主イエスの到来と、その先駆者、洗礼者ヨハネの登場」を記しているのであります。「見よ、私は私の使者をあなたよりも前に派遣する。彼があなたの道を備えるであろう。声が荒野において叫ぶ。あなた方は主の道を用意せよ。あなた方は彼の道をまっすぐにしなさい」と。そしてそのとおり、成ったことには、洗礼を施す者ヨハネが荒れ野において、現われ、罪の赦しへの悔い改めの洗礼を説教しながら、現われたというのです。悔い改めというのは、メタノイアという言葉で、言葉そのものの本来の意味としては、「心を変えること」でありますが、福音記者のこの語を用いている意味は「生活全体を神に向けて方向転換すること」を意味しています。私は、なかなか、生活が改まりません。牧師として、説教を整えることは大切な仕事でありますが、ついつい着手が遅くなり、皆様にご迷惑をかけています。その他訪問や、手紙書きなどについても同じことが言えます。しかし、主イエス・キリストの良き知らせは、既にはじまっているのであります。この本日の時から、新たな出来事が既にはじまっているのです。新共同訳聖書は、「福音の初め」と書いて、「福音の始め」とは書いていません。まったく新たな出来事が、この時からはじまったからであります。
洗礼者ヨハネの荒野での説教に大きな反応を見せて、全ユダヤの地方が、また、エルサレムの全住民が続々と出てきており、彼らの罪を告白して、ヨハネから洗礼を受けていました。このヨハネは、終末のときに再来すると信じられていたエリヤであると主イエスは後に語っています。彼は、主がやって来る前に、「その道を整えるために悔い改めの洗礼」を、すなわち、その必要を説教していたのであります。彼は、エリヤのように、禁欲的な食事や身なりをして現われました。それは、当時のユダヤ教の洗礼ともクムラン教団の洗礼とも違っていました。しかし、一回限りの全ユダヤ人に対する悔い改めの洗礼でありました。そして、彼は断言します。「私は水で洗礼を施しているが、私の後から来られる方は、私よりもずっと強い、すなわち超人間的なお方で、私はその方のサンダルの紐をかがんで解くにも値しないものであり、その方の奴隷にも値しないものである」と宣言したのであります。
実際には、ヨハネの影響力は強く、その亡き後も、弟子たちは存在したけれども、彼は道備え役としての使命に専念したのであります。私たちも、洗礼者ヨハネと共に、ご降誕の、そして、また、再臨の主イエスの到来を心を神に向けながら、静かに待ち望みたいものであります。アーメン。


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2008/12/07(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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