津田沼教会 牧師のメッセージ
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「秘められた救い主として」(マルコ11:1~11)
マルコ11:1-11、2008・11・30、待降節第1主日
イザヤ書63:15-64:7、コリントの信徒への手紙一1:3-9

マルコによる福音書11:1~11
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ホサナ。
  主の名によって来られる方に、
   祝福があるように。
  我らの父ダビデの来るべき国に、
   祝福があるように。
  いと高きところにホサナ。」
 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。



説教「秘められた救い主として」(マルコ11:1~11)
 
本日は、待降節第1主日です。待降節は、アドベントとも言い、それは「到来」というふうな意味を持っています。主のご降誕、クリスマスに備える、準備の時でもあります。ちょうど、復活祭、すなわち白で表わされる時期の前に、紫で表わされる受難節があるように、クリスマスの白で表わされる時期の前に、紫で表わされる待降節が、教会暦の一年の始まりに置かれているのであります。
 そして、ルーテル教会では、この一年の教会暦の始まりの日に、毎年、マタイ、マルコ、ルカの順で、主のエルサレム入城の記事が読まれます。今年は3年サイクルのB年となり、マルコから、その記事が読まれたのであります。しかも、この同じ記事が、ルーテル教会では枝の主日、すなわち、受難週の始まる主日に同じようにもう一度読まれるのであります。それだけを見ましても、このエルサレム入城の出来事がどれだけ重要なものであり、教会によってどれだけ愛されてきた記事であるかが分かるのであります。この出来事は、ヨハネ福音書も含めて、4つの福音書すべてに記されていますが、それぞれ、微妙に違っています。私たちは、マルコ福音書の記事を、まず、もう一度、思い起こしてみましょう。
 それは、このように始まっています。そして、彼らが、ベトファゲへと、そして、ベタニアへと、オリーブ山に向かってやって来たとき、彼は、こう言って二人を送り出す。向かいの村へと出て行きなさい。その村とは、多分、ベトファゲであったでありましょう。それのほうがベタニアよりもエルサレムに近いのであります。主は、さらに、言われます。そうすれば、じきに、あなた方は、つながれている、まだだれも乗せたことのない子ろばを見出すであろう。それをほどいて、連れて来なさい。もしだれかが、何であなた方はそんなことをするのかと言ったなら、こう言いなさい。「主がお入用なのです。彼はそれをすぐまたここに連れ戻しになります」と。
 だれもまだ乗ったことのない子ろばとは、それがささげられる神聖な動物であることを示しています。また、「主がお入用なのです」とは、原文を見ると、「彼のその主が必要を持っている」となっています。その主というのは、だれを指しているのかよく分かりません。その子ろばの所有者か、主イエスご自身のことか、あるいは、神のことを指しているのか。
 子ろばの所有者だとすると、主イエスとその所有者は知り合いであって、二人が前もって、この出来事のお膳立てをしていたとも考えられます。いずれにしても、弟子の二人はその村に入っていくと、主の言われたとおりに事が進み、交差路のようなところに戸口に向かって、つながれていた子ろばを見出します。それで、ほどいていると、そばにいた者たちのうちのある者たちが、あなた方は、子ろばをほどいてどうするつもりかと言ったので、主が言われたとおりに言うと、彼らは行かせてくれたと言うのであります。
この子ろばを徴用してくるという出来事は何でもない出来事のようにも、思われますが、これは、ゼカリヤ書で、メシアがオリーブ山に立つという預言と、メシアが子ろばに乗って来るという預言を成就する出来事なのであります。
 さて、11:7からの後半の記事がいよいよエルサレム入城そのものの記事であります。二人は、子ろばを引いてきて、自分たちの服をその背に敷くと、主イエスはそれにお乗りになります。それは、主が王であることを暗示しています。そして、多くの者たちが、自分たちの服を道に敷き、他の者たちも、野から、葉のついた枝を切って来て、道に敷きます。彼らは、エルサレムでの祭りへの巡礼の者たちであります。そして、前を行く者も、後に従う者たちも、こう叫んで言います。ホサナ、祝福されているのは、主のみ名において来られている方、祝福されているのは、私たちの父ダビデの来るべき王国、いと高きところにおいて、ホサナ!と。
 これは、詩編118:25、26によっています。ホサナーとは、もとの意味は、今救ってくださいといった意味で、詩編の118:25の言葉です。エルサレム巡礼の群衆は、子ろばに乗って入城するイエスを、ホサナ、ホサナといって歓呼するのであります。しかし、主イエスは、控えめにふるまい、沈黙したままであります。そして、主はエルサレムへと、また、神殿の境内へとお入りになり、すべてのものを見回した後、時刻も遅くなったので、12人と共にベタニアへと出て行かれたと記されて、エルサレム入城の記事はあっけなく終わっているのであります。
 主イエスは、低さを持って、自らを抑制しながら、秘められたメシアとして、エルサレムにお出でになられました。私たちは、本日の福音の記事を通して、力を奮ってお出でになられた主イエスの真の姿を知らされています。主ははなばなしい勝利の王として入城したのではなく、一緒に来た人々にもメシアとは分からない形でお出でになられました。
 こうして来られたこの方以外に、私たちを罪から解き放つことのできる人はいません。私は、亀井勝一郎という文学者、評論家との青年時代における出会いからキリスト教に大きくひきつけられました。その全集の第7巻に、東洋の知恵、西洋の知恵というのがあり、そこにキリスト教や聖書の言葉も紹介されていました。それから、20年も、30年もたちましたが、先日、改めて、そこに紹介されている東西の知恵についての文学書や宗教書を取り寄せて学んでみたいと思い、丸繕に行って買ったり、注文してきました。しかし、人間的な知恵に頼るのではなく、超人間的なメシアとして来られた方への信仰をないがしろにしてはいけないと思っています。私たちの常識や理性の働きをも超えて、低くなられて、メシアとして確かにお出でになられた本日の主イエスのエルサレム入城の出来事の意味を私たちは深くかみしめたいと思うのであります。
祈りましょう。
 父なる神さま。私たちは毎日、罪の危険や、危機の中を歩んでいます。どうか、常に聖書、み言葉に立ち返って、メシア、キリストなるお方を信仰することから、私たちを離さないでください。激動する現代の中に置かれていますが、み言葉と共に歩むことを得させてください。今年も待降節を迎えました。あなたとみ子の良き証し人として、家族や友人たちを励まし、助けることができますように。この教会暦の一年の始めという節目にあたって、キリストによって祈ります。アーメン。

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2008/11/30(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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