津田沼教会 牧師のメッセージ
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「終りの日における報い」(マタイ25:31-46)
マタイ25:31-46、2008・11・23、聖霊降臨後最終主日(典礼色―緑―)
エゼキエル書34:11-16、23―24、テサロニケの信徒への手紙一5:1-11

マタイによる福音書25:31~46
 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに、宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられるのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」



説教「終わりの日における報い」(マタイ25:31~46)

いよいよ、本日でもって、聖霊降臨後最終主日を迎えました。私たちは、この教会暦の一年間、三年サイクルのA年としてマタイ福音書を中心としながら歩んできました。マタイ福音書は、整えられた文体で書かれており、主の祈りなども、私たちは、マタイのほうを選んで唱えています。まさしく、教会に向け、信者に向けて書かれているのがマタイ福音書だと思います。そして、この一年間、何とか無事に教会の働きがなされていたことを感謝したいと思います。
  さて、教会暦の最後に与えられているのは、終末の日において予想され、主によって約束されている本日の個所、マタイ25:31-46であります。私たちは、主によって、良い木からは、良い実が自然ともたらされる。キリストにつながっていれば、おのずと良い働きの実が生まれると教えられていますが、現実の信仰生活を振り返りますと、思い通りにはなかなかいかないのが、率直なところであります。
しかし、私たちは決して絶望することなく、み言葉に立ち返り、教会につながって生きたいと願うものです。私たちは、終わりの日に、裁きの日にどのようになるのか。それについて、本日の個所で主は、私たちが地上で行った小さな慈善のふるまいであっても、それは、必ず報われるということを約束されているのであります。「報い」という言葉は、仏教ではよい意味でもよくない意味でも用いられますが、キリスト教ではどちらかといえばよい意味で用いられています。しかし、本日の個所では両方の意味で考えられています。
さて、本日の記事について、今一度思い起こしてみましょう。終わりの日に、人の子がその天使たちと共にやって来るとき、彼は、その栄光の座につくであろうと主は言われます。これは、ダニエル書7章に出てくる終末の預言の成就であります。人の子のような者が現われ、天使たちを伴い、終わりのときに、日のような老いたる者すなわち、神の前に来てあらゆる王権、栄光等を受けるというようなことが記されています。主イエスはそのような方として終わりの時に、再臨されるのであります。
そして、羊飼いが羊と山羊を夜により分けるようにすべての民、全人類をより分け、羊たちを自分の右に、山羊たちを自分の左に置くのであります。もちろん、羊のほうが、価値が高く、人の子によって正しい者とされた者たちを示しています。そして、人類の王であられるイエスは、まず右に置かれた者たちに言われるのであります。さあ、あなた方は、この世界の始めから備えられていた王国を領有しなさいと。なぜなら、私が飢えていたとき、私に食べさせ、あるいは、牢にいたときやって来てくれたからなどなどと。右に置かれた者たち、正しい者たちは言います。主よ、私はいつあなたを飢えたとき食べさせたり、牢にいたとき訪ねたりしたでしょうか。それに対して、王、ユダヤ人たちのみならず、この世界の全人類の王は言います、これらの私の兄弟の取るに足りない一人にしてくれたのは、私にしてくれたことなのだと。
また、左の者たちには、この王は、同様に言われます。あなた方は悪魔とその手下に備えられている永遠の炎へと入るが良い。なぜならば、私が飢えたり渇いたり、病気だったり、よそ者だったり、牢にいたとき、私を助けてくれなかったからだと。すると、彼らも言います。主よ、いつあなたが、飢えたり牢にいたりなどなどしたときに、私はお世話しませんでしたか。王は言います。この取るに足りないものの一人にしてくれなかったのは、私にしてくれなかったのだと。そして、悪い者たちは、永遠の罰へと出て行き、正しい者たちは永遠の命へと出て行くと主は約束されています。私たちは何も偉業をなす必要はありません。普段の平凡な日常生活の中でちょっとした援助を特に苦しんでいる人たちに示せばいいのです。家庭生活の中で、身近な生活の中でこそ、本日の終りの日における報いは問われ、永遠の罰か、それとも、永遠の命へと出て行くことになるのかが問われているのであります。主は、主によって選ばれた正しい者たちである私たちが、永遠の命に与かることになることを強調し、受難前の弟子たちとの講話を終えているのであります。私たちの日常生活のささやかな振る舞いと態度が、終りの日の報いにつながるといわれているのであります。
毎日の平凡な生活の中でこそ、この二つの報いに分けられることになることを私たちは肝に銘じて、この一年間の教会暦の歩みを、感謝をもって閉じ、新しい教会暦の一年へと出発していきたいと思います。アーメン。
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2008/11/23(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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