津田沼教会 牧師のメッセージ
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「終末に向かって生きる」(マタイ25:1~13)江本正幸牧師
マタイ25:1-13、2008・11・16、聖霊降臨後第27主日(典礼色―緑―)
ホセア書11:1-9、テサロニケの信徒への手紙3:7-13

マタイによる福音書25:1~13
 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時をしらないのだから。」



説教「終末に向かって生きる」(マタイ25:1~13)江本正幸牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン。

 教会には私たちが普段使っている暦―西洋暦とは違う暦があります。いわゆる教会暦といわれるものですが、それによりますと、今は一年の終りの時です。そして来週は一年の最後の主日を迎え、再来週は新年―待降節を迎えることになります。
 しばらく教会に来ておられる方なら、誰でもご存知と思いますが、キリスト教には再臨というものがあります。イエス様が再びおいでになって、私たちが真の信仰者であるか、審判される。いわゆる終末、この世の終りの時です。しかし、「終り」というのはあまり良い響きを持っていません。したがって私たちは無意識のうちにそのことを考えるのを避けようとしているのではないかと思います。
 けれども、聖書の一番初め、創世記の1章1節には、「初めに、神は天地を創造された」とあります。そして、「初め」があるからには「終り」があるはずです。主イエスさまは、「私はアルファであり、オメガである。初めであり、終りである」と何回も繰り返されました。「初め」があって、「終り」がある。私たちもそのことは理屈としては良く分かります。けれども私たちは潜在的に輪廻的な考え方を強く持っていますので、「終り」の方のことはボケてしまっている、曖昧になってしまっているという気がします。しかし、「終り」があり、主の再臨があり、最後の審判があるということは、聖書が何回も繰り返している厳然たる事実です。本日は良い機会ですので、そのことに思いを致したいと思います。
 今、教会暦のことを話しましたが、もう一つ、暦のことを話しておきたいと思います。毎日のように大きな事件が起こっていますが、その中でも大きな事件というのは今でも尾を引いている「金融危機」のことでしょう。これはユダヤ人が大量の売りを入れて、9月29日にニューヨーク株が777ドルの下げを記録しました。それが連動して30日には世界中を巡り、世界同時株安となりました。この世界同時株安というのは、今まで10年と少しの間に3回ほどあったと思います。ですから10月14日になって今度は東証株価が1171円高と史上最大の上げとなった時は、また元に戻ると期待を抱かせたものです。
 けれども欧米の見方は初めからずっと悲観的であり、公的資金の注入など実際的な対応を急ぎました。なぜでしょうか。それは私たちの知らない何かを知っていたからです。それは何か。私たちは大体、自分中心に物事を考えますから、自分たちが西洋暦を使っていると、みんながそうだと考えてしまいがちです。しかし、そうではないんです。イスラムではイスラム暦を使い、ユダヤ人はユダヤ暦を使っているんです。
 で、ユダヤ暦では9月29日は日本でいう大晦日、9月30日は正確にいうと、ユダヤ暦5769年の元旦です。一日の始まりをどこの国にするか、そしてまた、ユダヤでは夕方から一日が始まりますから、多少時間のずれが出てきますが、それがあったとしても「この新年から、俺たちユダヤ人のシナイする新しい時代が始まった」という宣言だったのです。時を選ばない今までの世界同時株安とは違っていたのです。
 777ドルの下げというのは、スロットマシーンなら大当たりなんだがなあーと思っても、あるいは「偶然だ」ということでも良いのでしょうが、ユダヤあるいはユダヤ人のことを学び始めると、じきに「何事も偶然などということはあり得ない。舞台裏を覗くと、思わぬ人が、思わぬ役を担っている」という言葉にぶつかります。7というのは聖書では特別な意味を持っています。ですから777が何を意味するか、これは一人ひとりが考えて下さるとよいでしょう。
 さて、その終りの時、主の再臨の時について、聖書には、「その日、その時は誰も知らない」と記されています。いつかは分からない。しかしある日、ある時、ノアの時のように、それは突然に必ず来るのです。「ノアの時のように」というのは、「人々が飲み食い、娶り嫁ぎなどしている時」と書いてあります。
 日本ルーテル教団には、英語を教えながら伝道する、大学を卒業して間もないくらいの若い人たちが来ていますが、この人たちが「この『飲み食い』というのは、今の日本の姿だ、そして『娶り嫁義』は今のアメリカの姿だ」と言いました。本当にテレビではグルメの番組や食べ物の番組が溢れています。世界にはまともに食事を出来ない人がたくさんいるのにです。そしてアメリカでは結婚・離婚が繰り返されています。ですからアメリカに友達がいる人は大変なのだそうです。MissなのかMrsなのか分からない。間違えると非常に失礼になる。あるいはそれでMsという言い方が出てきたのかもしれません。いずれにしても聖書が預言している状況と非常に似通ってきているわけです。
 さて、本日の福音書の物語は、その再臨の時に、備えていて天国の宴会に与ることのできた者と、十分な備えをしなかったために、その宴会に出席することのできなかった者の物語です。
 イエス様の再臨の話は24章から続いていますが、今日の箇所のすぐ前の24章45節には、「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間通り彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか」と、主人すなわちイエス様は聞かれました。「忠実で賢い僕」、それが終末に備えるクリスチャンに期待される理想像です。そのうちの一つの資格である「賢さ」についての説明が、今学ぶ「十人の乙女のたとえ」です。
 24章45節~51節では男の僕をたとえに用いたので、今度は「おとめ」を借りて説明しておられるのでしょう。ここで、「賢い」と訳されている言葉は、「分別がある、聡明である、また先の考えがある」ということです。マタイ7章の24節~27節には、「岩を土台とする家と、砂を土台とする家のたとえ」が出てきますが、そこで、「賢い人」と「愚かな人」と訳されている言葉は、ここで使われている言葉と同じです。従って賢いというのは、岩を土台として家を建てる者のことである、また愚かというのは砂を土台として家を建てる者のことである、ともいえます。
 さてこのたとえを理解するのに、ユダヤの結婚手続きを知っておく必要があります。ユダヤでは男女が結婚するのに、三段階の手続きがありました。第一は男と女の双方の両親が子らの結婚の約束を取り交わすもので、まあ強いていえば日本の婚約式に相当します。
 第二は、ユダヤの婚約式です。これは結婚の前約束ではなくて、「夫婦になった」契約のことです。この日から二人は法律上、正式な夫婦です。けれどもまだ同棲生活には入れません。ついでですが、降誕物語のマリヤとヨセフはこの関係にありました。
 実際の同棲生活はちょうど一年後に始まります。これが第三の段階です。二人がいよいよスウィート・ホームを築くということで、盛大な宴会が催される。旧約聖書には「7日の振る舞い」という言葉がでてきます。このマタイ25章はこの宴会の場面です。
 普通は花婿が花嫁を迎えに来て、花婿の家で宴会をする。従って10人のおとめたちは、花嫁の家に迎えにくる花婿を待ち受ける女たちであると考えられます。けれどもいくら身支度が遅れたからといっても、花婿が夜中に花嫁を迎えに来るとは思えませんし、また花婿が戸の内に入ると婚宴が始まっています。ですからこの10人のおとめは、花嫁の玄関で、花嫁の代理として、花婿を迎えようとしていた、「花嫁の友」のことであると考えるのが最も自然です。
 10人というのは、そういう習慣であったのか、たまたまその時10人であったのか、よく分かりません。10というのは聖書では聖なる数というので選ばれたのかもしれません。2節に「五人は愚かで、五人は賢かった」と言われていますが、これもクリスチャンの半数が天国に入れられて、半数が天国から締め出されるということではありません。これは人数を教えるための数字ではなく、すべてのクリスチャンが天国に入れるか、出されるかの可能性を五分五分に持つ者として、一人ひとり緊張して自己吟味するように、という意味で選ばれている比率でしょう。
 では次にこの五人の女の「賢さ」はどこにあったのでしょうか。イエスさまはたとえの終り、13節に「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言われています。「目を覚ましていなさい」。これを文字通り、賢いということだと考えると、このたとえはすっかり訳が分からなくなります。というのは5節によれば、10人が10人とも、「皆眠気がさして眠り込んでしまった」からです。無理もありません。どう見ても、花婿が来るのが遅すぎて、「真夜中」になってしまったからです。ですから寝てしまった事自体は非難されていません。ここではおそらく花婿の到着が予想以上に遅かったことを強調して、突然出迎えの支度をしなければならなかった驚きを力説するための技巧です。10節を見てみると、賢いおとめは「用意のできている」と言い換えられています。ですから、「賢い」というのは、たとえ一時は居眠りするにしても、よそ事に心奪われることがあるにせよ、とにかく「花婿だ、迎えに出なさい」という叫びが聞こえた時に、出迎えられる、「用意のできている」賢さのことです。
 ではその「用意」はどういう点にあったのでしょうか。3節、4節を見てみますと、皆が「ともし火」を持っていました。しかし賢い乙女たちは壷に油を入れて持っていたというのです。5人の賢さは花婿が何時来るか分からないので、別の壷に油を用意したほど、花婿の来る時に対して慎重な備えをとっていたということです。「この慎重な備え」ということ、自分自身はどうであろうかと真剣に吟味してみなくてはなりません。その時になったら、なんとかなるさと安易に考えてはなりません。その時になってもどうにもならないことがあります。事実、この物語ではどうにもなりませんでした。夜中に買いにでても開いている店など、ある訳がないのです。「しまった」と気づいたときには遅かったのです。
 ところで、この油や明かりは何を意味しているのでしょうか。聖書では油というとき、多くの場合、聖霊を意味します。私たちキリスト者というのは、この聖霊が私たちのうちに働いていることによって、キリスト者であるわけです。したがって聖霊の油にあらゆる信仰生活の芯を浸している人だけが、まことに生命力ある信仰生活を行えると共に、いつまでも色あせぬ信仰生活を保ちうるのです。
 パウロはⅠテサ5章19節(p.379)で、「“霊”の火を消してはいけません」と警告しています。ここでは聖霊の油によって照らされる「あかり」を聖霊そのものに見立てています。御霊の炎を消す者は、実力を発揮できないし、長続きもしません。聖霊の油の切れた人は形式的に、形の上だけ信仰を守ることができるでしょうが、最後の時にはそれは何の役にもたたないのです。
 最後にこのおとめたちの会話から学んで見ましょう。愚かな女はともし火の油がなくなりつつあるのを見て、他の5人の女に油を求めますと賢いおとめの返事はこうでした。9節「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買ってきなさい」。愚かな5人の女にも、そのことがはっきり分かりました。したがって、「意地悪」とは怒らないで、早速買いに走ります。けれども夜中に店など開いているはずもなく、彼女たちは締め出されるほかありませんでした。
 5人の愚かさは、「あなたがたの油を私たちに分けてください」と頼んだ点にあります。聖霊は信者から信者へとおいそれと分け与えられるものではありません。使徒言行録8章にペトロたちが奇跡をするのを見て、魔術師シモンは金を持ってきて、19節「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」と言った記事があります。けれどもペトロは魔術師シモンに申しました。20節「神の賜物を金で手に入れられると思っている」のか(口語訳)。神の賜物はお金では買えないのです。兄弟姉妹の間で取り引きすることもできません。直接、神さまのみ言葉に従い、神さまに祈り求めることによってだけ、恵み与えられるものです。神さまはそれぞれに聖霊の賜物を量りに従って、分け与えておられます。ということは言い換えれば、その人自身になくてはならぬもので、余りは無いということにほかなりません。聖霊の油は信者一人一人が、各自神さまからいただいて、蓄えておかねばならないものです。クリスチャンの信仰はこの点になると、徹底的に個人的であります。主を迎える備えにおいては、一人一人が自分自身に、信仰を確かめていなければなりません。
 ヨハネの黙示録3章11節(p.456)に、「わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい」とあります。わたしたちはこのためにこそつとめるべきです。現在、社会にも教会にも色々な問題があると思います。それぞれの問題は私たちが協力して真剣に取り組んでいかねばならないものです。けれどもそのやり方や考え方はどうでしょうか。ムダをし、遠回りをし、あるいはつまらないことを繰り返すということがありはしないでしょうか。イエスさま、今はちょっと都合が悪いんですということがないでしょうか。そして、それはとりもなおさず、主イエス様はまだまだお出でにならないという油断があるからでしょう。イエス様が明日にでも来られるというのであれば、私たちはそれこそ、最も大切な最も主に喜ばれることをするのではないでしょうか。
 聖書は告げています。「わたしはすぐに来る」。わたしたちはそのことを決して忘れてはなりません。私たちはそのことを覚え、それがいつであっても良いように、準備する。いつも最も大切な物を追い求めて行く。私たちの生活は日々そのようでなければならないと思うのです。
 「わたしはすぐに来る。だからあなたの冠が誰にも奪われないように、自分の物を固く保っていなさい」。そのために、「思慮深くありなさい」、そして「いつも目を覚ましていなさい」。
 どうか私たちがそういう者とされて、日々を送っていくことができますように。この新しい一週、特にそのことを覚えて過ごすことができますように。

 どうか、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。
 
祈り
天の父なる神さま。
この礼拝の時をありがとうございます。
様々な問題を含みつつ、そしてまた愚かさを繰り返す私たちに
あなたさまは今日も福音の言葉を与えてくださいます。
弱く、愚かで罪深い私たちをお見捨てにならず、あなたさまは
私たちの主として、私たちを統べ治めてくださいます。
そのことを覚えて心より、感謝いたします。
私たちの現状は暗くても、あなたさまは輝く、朝の光として
私たちを招いておられます。
そして、あなたさまに向かって生きること、主の大いなる日に
向かって生きること、そこに私たちが真のキリスト者として、
生きて行く生活があることをお教えになられます。
どうか、私たちがそのことを覚え、それに向かって、力一杯
生きて行くことができますように。一人ひとりを邪悪や誤りや
生ぬるさからお救い下さい。
そして一人ひとりを守り支え、力と勇気とをお与え下さいますよう
お助けください。
この津田沼教会がこの地にあって、地の塩、世の光としての務めを
十分果たして行くことができますうよう、強め導いて下さい。
また交わりの輪が深められ、広められて、互いに手を取り合い
助け合いつつ、進んで行くことを得させて下さい。

どうぞこの一週も私たち一人ひとりといつも共にいて下さいまして
その歩みを守り、支え、祝福して下さいますように。
これらの感謝、願い、主イエス・キリストのみ名によって祈ります。
                        アーメン。
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2008/11/16(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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