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津田沼教会 牧師のメッセージ
「天の国に入るには)(マタイ5:21~37)
マタイ5:21-37、2005・05・29、聖霊降臨後第2主日(緑)
申命記30:15-20、コリントの信徒への手紙一 2:6-13

マタイによる福音書5章21節~37節
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

説教「天の国に入るために」(マタイ5:21-37)
 本日から、聖卓や聖書朗読台、説教台、アルバに用いられるストールの色も緑に変りました。今まで、アドベントの時から、終末の期待、み子の誕生、顕現、受難、十字架と復活そして、聖霊の降臨、さらに先週の三位一体の主日というふうに、み子にかかわる救いの出来事を教会暦を通して、辿ってきました。そして、もう5月の最終の日曜日を迎え、教会暦としてはもう後半に入るのであります。この間、いろいろな私たちの救いにかかわる出来事が、主に福音書の箇所から取り上げられましたが、本日からは、特に主イエスのお語りになったお言葉と、なさった奇跡などの出来事が読まれるのであります。
 そして早速本日は、マタイの山上の説教のなかから、5章の21節から37節までが選ばれているのであります。この山上の説教は、昔からいろいろな読み方がなされてきましたし、多様な読み方ができる箇所であります。本日の箇所では、「腹を立てるな」、「姦淫について」、「離縁について」「一切誓うな」という内容について、主イエスは語っておられます。
私たちの身近な日常生活にかかわる内容が、主イエスによって、ファリサイ派にまさるより完全な義として、あげられているのであります。私たちは、「天の国に入るために」は、何かこの世離れした、深遠な教理とか、救いの言葉を必要とするように考えがちですが、日常生活のそのものにかかわる「他人に対して怒るとか」「他人に恨みを持たれている」場合だとか、「ある訴訟の相手方に訴えられ、共に歩いている」場合ですとか、他人の妻を性的な欲望をもってみることとか、離縁することとか、あるいは、何かを誓ったりするといった日常的な出来事が、天の国に入ること、それは神さまの支配の中に与かることでもありますが、そのような根本的な救いとかかわる重要な事柄だと主は本日お教えになっておられるのであります。それらの一つ一つについて思いをめぐらしてみたいと思います。
 本日の内容は、十戒に多くかかわるものであります。殺すなかれ、姦淫するなかれ、隣人に対して偽りの証しを立つるなかれ、なんじの隣人の妻をむさぼるなかれ、といった十戒の言葉がすぐ思い起こされます。ルターは、良い行いとは、十戒の中に尽くされているといいました。よい行いをするというと何か特別な社会奉仕とか、貧しい人たちの支援とか、普通の人にはできがたい大きな働きをしなければならないように思いがちですが、ルターは、十戒の中にあらゆるよい行いが尽くされているといいます。本日の主イエスの言葉は、それにかかわる、私たちが天の国に入るためのあり方を指し示しているのであります。
 まず、怒りについてであります。あなたがたは、聞いている、昔の人たちにこういわれたことを。すなわち、あなたがたは殺してはならない、と言うことについてであります。主は、それに対して、私は言う、彼の兄弟に対して怒る者は裁判の責めを負う。あなたがたは、兄弟を馬鹿と言ってはならない。そういうものは、最高法院の責めを負う。また、愚か者と言うものはゲーナ、地獄へと責めを負うであろう、と言われるのであります。私たちは日常生活でしばしば、兄弟を怒り、他人を、仮に口に出して言わなくても、心の中で、怒ったり、ののしったりするものであります。主は、ルターもそのように解したように、兄弟や隣人に対して怒ることは、心の中で相手を殺すことに通じるといわれるのであります。そのようにして他人に親切にふるまい、対応することは不可能のように思われますが、主イエスキリストが、私たちが罪人であった時に、私たちの罪をにない、十字架についてくださったことを知る時にこのことは可能になるのであります。
 主は、祭壇への献げ物をするに際して、あなたの兄弟があなたに対して反感、恨みを持っていることを思い起こした時にも、同じように、まずその兄弟のところへ行って、和解した後でその献げものをするようにと教えています。これは、わたしたちが神への礼拝をするに際しても、同様に考えることができるでありましょう。私たちは、そのために、礼拝に際して、まず、ざんげの祈りをし、言葉と行いと思いをもってみ前に多くの罪を犯したことを告白するのであります。
 訴訟の相手方が、あなたを訴えて共に歩んでいるときにも、急いでその人と友達となり、和解するように主は言われます。さもないと、あなたは、裁判官に渡され、下役に渡され、牢に入れられ最後の1カドランスを返すまでそこから出てくることはできないであろうとも言っておられます。
次に、姦淫についてであります。あなたは姦淫してはならないといわれている。それに対して私はさらに言う、他人の妻を欲望をもって見る者は、心の中で既にその女を姦淫したのであると言われるのであります。これも非常に困難な言葉であります。主イエスの十字架上の死をもって、自分のために死んでくださったという思いをもって、対するときにのみ可能な言葉であります。また、離縁についても、不法な結婚でもないのに、妻を追い出す者は、その妻に姦淫を犯させる者であり、その女を妻にする者も姦淫を行うのであると言われます。
 そして最後に、誓いについてであります。天をさして、地をさして、また自分の頭をさして、あるいは、エルサレムに向かって、一切、誓ってはならないと、主は言われます。偽り誓ってはならないとあなたがたは聞かされている。これは誓いを破ってはならないとも、訳すことができます。そして誓ったことを守るようにと言われている、とも。しかし、私たちの生活の中で言葉にも行いにも誠実に対応することができるならば、誓いなどは不必要になるのであります。主は、あなたがたの言葉は、『然り、然り』『否、否』でなければならない。それ以上に出ることは悪魔から来るのであるとまで言われます。何かと自分の行いに弁解しないで、誠実に率直に行動したいものであります。
一言祈ります。
天の父なる神さま。私たちは、み子の十字架上の死を通して、初めて、十戒の教え、み前に正しい行いをすることができる者です。日常生活のささいな喧嘩や憎しみから私たちが解き放たれ、怒るに遅く、そして、兄弟や周囲の人々と和解して、誠実で率直な向かい方をすることができますように、憐れんでください。キリストによって、アーメン。

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2005/05/29(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)