津田沼教会 牧師のメッセージ
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「天の国における慰め」(マタイ5:1~12)
マタイ5:1-12、2008・11・02、全聖徒主日(典礼色―白―聖餐式あり)
イザヤ書26:1-13、黙示録21:22-27

マタイによる福音書5:1~12
 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

 「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
  悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
  柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ。
  義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる。
  憐れみ深い人々は、幸いである、
   その人たちは憐れみを受ける。
  心の清い人々は、幸いである、
   その人たちは神を見る。
  平和を実現する人々は、幸いである、
   その人たちは神の子と呼ばれる。
  義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
  わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」



説教「天の国における慰め」(マタイ5:1~12)

 本日は、全聖徒主日を迎えています。先週は、宗教改革主日でありましたが、宗教改革記念日は、全聖徒の日、すなわち、11月1日の前日に、マルチン・ルターが全聖徒の日の前日、すなわち、1517年の10月31日に、小さな町ヴィッテンベルクの城教会の入り口の扉に95か条の提題を掲げたということから守られるようになった礼拝であります。
本日の福音として、マタイ福音書5:1-12が与えられています。それは、なぜでありましょうか。そのことを、しばらく、皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。本日の記事は、すぐ前の個所(マタイ4:23-25)を見ますと、ガリラヤの周りから、大勢の群衆が押し寄せて来て、その中の多くの病人を癒した後に、主は、群衆を顧みられながら、彼らを後にして、「山へと」お登りになられます。山は壮厳な場所であります。私も、田舎が四国ですが、今では足が弱ってままなりませんが、若いときは帰省のおりにはすぐ裏山の1000メートルほどもある山へよく登ったものであります。「山」に登ると厳粛な気持ちに満たされます。聖書の中で「山」といえば、シナイ山にモーセが1人で登っていって、十戒などの律法を神から与えられたことが思い起こされます。
さて、主がお座りになると、「弟子たち」が近づいてきます。まだ、マタイ福音書においては、12使徒の選出は出ていないのですが、ここで、初めて「弟子たち」という言葉が出てきます。これは、4人の漁師たちを中心に、主イエスについて一緒にやって来た心ある人々、すなわち、広い意味での弟子たちであったと思います。
そして、主は口を開いて語り始められたのであります。本日の主の言葉、マタイ福音書の5:3から12までは、8福などと呼ばれます。しかし、「幸い」、あるいは「祝福」とも訳せますが、この言葉は、9回出てくるのであります。これは、マタイが3つずつ組み合わせる表現を好んだためであるかもしれません。
同じような幸いについての文章がルカ福音書にも出てきます(ルカ6:20-23)。ルカのその個所では、四つの「幸い」になっています。どちらが、オリジナルあるいはオリジナルに近いかはよく分かりません。マタイでは、まず、「心の貧しい人は幸いである。天の国は彼らのものであるから」と始まっています。そして、この8福、あるいは、9福とは、この「心の貧しい人々は幸いだ、天の国はその人たちのものである」と言われたものを、広げていったようなものであります。もとのギリシャ語の文を見ますと、いずれも「マカリオイ ホイ・・・」となっており、祝福されているのは、以下の人々だよという表現が続いています。そして、「貧しい人」「柔和な人」「悲しんでいる人」という言葉も同じ発音で始まっており、実に美しくリズムカルな、憶えやすい文章になっています。
ルカ福音書のほうは、ただ「貧しい人は幸いだ、神の国はあなた方のものである」となっている点が違っています。昔、神学校に行くよりも前にもう25年くらいも前になりますが、私は洗礼を受けた後数年教会学校の先生をさせていただいていましたが、ある時、教会学校の合同キャンプがあって、神戸や他の教会からも、小さな子供たちが集まり、能勢キャンプ場というところに行ったことがあります。それは初めての経験でしたが、「種まきの譬え話」主題のキャンプであり、学年ごとでしたが、私も低学年のグループを担当していました。そして、劇なども終わって、帰るとき近づいた前日でしたか、記念に木のかけらの板に、好きな聖書の言葉を書くことになりましたが、子供たちは、どうしても「心の貧しい人は幸いだ、天国は彼らのものである」というほうを書きたいというのです。小学校低学年で、2、3年生くらいだったでしょうか。私は「貧しい人たちは幸いである。神の国はあなた方のものである」というほうを薦めたのですが、彼らはただの「貧しい人たちは幸いだ」というほうのではだめである、どうしても「心の貧しい人々は幸いである。天国は彼らのものである」というのにしたいと言い張ったことを憶えています。
子供たちは、本能的に、マタイのほうを好み、選んだのであり、マタイが、「心の貧しい人々は幸いだ」としたのは、まことに、ふさわしいことであったのです。原文を見るとこれは、「霊でもって物乞いする者たちは祝福されているよ」、というようなニュアンスで書かれています。経済的に貧しい人が幸いから、外されているわけではありません。彼らも神により近い人々でありましょう。しかし私たちの「霊でもって」、神に信頼して救いを求める以外にはない人々、神の言葉、聖書により頼む以外には生きていけない人々こそ、神は祝福なさると、主イエスは言われるのであります。
 私は、兄弟5人で育ちましたが、兄や妹たちにくらべて、社交的でなく、能力も人格も、自分は劣ると感じさせられていました。小学校の5、6年くらいであったでしょうか。夕方、風邪をひいてたか何かであったでしょう。私は布団に一人早々ともぐりこんでいたのであります。すると父母たちが話をしていて、兄は優れていると語っているのが聞こえてきました。私は、自分が劣っていることを非常に感じさせられ、何ともいえぬ孤独を味わったことがありました。さて、それから、長い青春時代を経て、ついに、百万遍近くにあったルーテル京都教会に行くようになりました。いろんな辛いことや、病気や、困難に出会って、その中で、キリスト教に落ち着き、27歳の時、今はもう亡くなられましたが、二人の姉妹と一緒に洗礼を受けたのであります。そして32歳になって、神学校に行き、当時のルーテル神学大学の3年に編入されて、6年間もかかって、按手を受け、牧師にまでなったのであります。その間も決して順調にいったとは言えません。
洗礼を受け、牧師になったからといって、昔の私がまったく変わったということはありません。津田沼教会に来て、ある時のこと、京都教会で宣教師をしていた先生の息子さん夫婦が訪ねてきてくれたことがありました。その宣教師さんは、確か七人の子供さんに恵まれていましたが、その末っ子の息子さんが、夫婦で会いに来てくれました。彼が、京都教会時代から、20年ぶりくらいに会ったのですが、私と会って言うことには、「渡辺先生は京都時代とまったく変わってないね」というふうに感想を漏らしました。ほめられているのか、くさされているのかは分かりませんでしたけれども、昔のままで牧師をしていると感じたのでしょう。
しかし、私は、「霊でもって、神にすがらざるを得ない貧しい者」であることを、今では幸いであると思っています。本日は、最初に言いましたように、全聖徒主日、マルチン・ルターが、全聖徒の日の前日の10月31日に95か条の提題を掲げ、宗教改革が始まったのですが、それも、本日の福音が読まれる日であったことは意味深いことだと思います。彼もまた、死を前にして、「私は神の前にみ言葉を毎日の糧として求めずには生きていけない、み言葉の乞食である」と言いました。主は、悲しんでいる者たち、義、正しい行いに飢え、渇いている人たち、柔和な人たち、平和を作り出す者たちは幸いだ、また、私のためにののしられ、迫害され、うそを言われながらあらゆる悪口を言われているあなた方は、幸いだ。あなた方の前の預言者たちにも同じように人々はしたのであると慰め、励まされました。神の言葉に立ち、それを証しする弟子たちは、いつの時代でも、昔のイザヤやエレミヤほどではないにしろ、いずれも、迫害を受け、殺されたりしているのであります。
 本日、思い起こすために、生前の方々の遺影が飾られています。この人たちも、みんなそれぞれに、誤解を受け、迫害を受け、悩みと困難を乗り越えて、天の国の祝宴に与っている方々であります。そして、み言葉の前に集まっている私たちすべても、聖徒であります。私たちのこの世の命は、昔の詩人も歌っているように、「70歳か、80歳」くらいものであります。歴史の中であっという間に、いつ消えるとも知れないはかないものであります。しかし、私たちは自分の罪深さを思い知らされ、主イエスのお言葉にのみ全信頼を寄せて、聖徒とされたのであります。聖徒とは、徳のある人とか、聖人といった意味ではありません。神なしには、救いはないことを知らされたすべての人であります。
 今日私たちは、聖餐に与ります。これは、終末の日における主のもとでの祝宴の先取りであります。私たちは、聖餐式に与るごとに、み国で休んでおられる方々と共に与るのであります。皆さんの上に手の祝福が豊かにありますように。アーメン。



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2008/11/02(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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