津田沼教会 牧師のメッセージ
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「キリスト者の自由」(ヨハネ8:31~36)
ヨハネ8:31-36、2008・10・26、宗教改革主日礼拝(典礼色―赤―聖餐式)
エレミヤ書31:31-34、ローマの信徒への手紙3:19-28

ヨハネによる福音書8:31~36
 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」

説教「キリスト者の自由」(ヨハネ8:31~36)
本日は宗教改革主日の礼拝であります。マルチン・ルターがいたヴィッテンブルクの町には今でも町教会と城教会がその時代そのままと言っていい状態で残っており、教会として用いられています。そのうちの城教会の扉に、1517年、ルターが34歳位のときに、全聖徒の日すなわち、11月1日の礼拝のその前日10月31日に95か条の提題、当時、聖ペトロ大聖堂の修復などのために、ローマ・カトリック教会が贖宥券いわゆる免罪符を売って資金にしていたのなどに、反対して、それを問題提起したのでありますが、これが思わぬ反響を捲き起こします。しかし、ルター自身は、当初はローマ教会から離れるつもりは毛頭なかったのですが、やがて、破門され、帝国アハト刑という身分保障外という制裁を受けます。そしていつ誰によって殺されるか分からない生活となったのであります。しかしここから、新しく抗議する教会すなわち、プロテスタント教会を起こさざるをえない事態になっていったのであります。それは、宗教のみならず社会改革ともなる大きな改革の運動になりましたが、その中心人物マルチン・ルターは、聖書研究、特に晩年は旧約聖書を教える聖書教授として、もちろん、牧師でもありますが生涯を全うしたのであります。  
すなわち、彼は1483年生まれですから、1546年までの63歳くらいの生涯を、その時から、当時のザクセン選帝侯や諸侯に守られて過ごしたのであります。
本日の説教の題を「キリスト者の自由」とつけておきました。それは、ルターの最も有名な書物の一つの著書名でもあります。それは、最初の部分でラテン語版の翻訳では以下のようになっています。
「キリスト者は、あらゆるものの、最も自由な主であって、何ものにも隷属しない。」
「キリスト者は、あらゆるものの、最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属している。」
さて、本日の福音は、ヨハネ8:31~36であります。これらの言葉は、当時のヨハネの教会の状況を反映して記されています。多くのもともとはユダヤ人でそこからキリスト者になった人々がヨハネの教会にはいたようです。
その時代、紀元後90年代から100年頃であろうと考えられますが、一方ではユダヤ教からの迫害もあり、他方ではローマ帝国からの迫害もあり、さらには、グノーシス主義という異端が幅をきかし、人間の体・肉体を汚れているものとして、これを知識(グノーシス)によって解脱し、この世から距離を置くという宗教もはびこっていました。
そういう中で、本日の福音の主イエスの言葉は記されているのであります。「私の言葉にとどまるならば、あなた方は私の弟子である」と主は言われます。すぐ前の8:30で分かりますように、主のしるしを見て表向きには信じた多くのユダヤ人がいました。そして主は、「真理はあなた方を自由にする」と言われます。
この真理とは、誤解されることも多いのですが、いわゆる学問の追求や特に自然科学の追求によって得られる客観的な真理を意味するものではありません。そうではなくて、主イエスが天の父のもとから遣わされ、父の言葉を守り、私たちに伝えてくださったところの真実であります。すなわち、父のみ心を主イエスは私たちに伝えており、それに従順であるならば、死と闇との罪から解き放たれ、命と光を見出し、真に自由なものとして生きることができるというものです。
すべての罪を行う者、すなわち、人間と神の義からはなれて生きる者は、罪の奴隷であると主はいわれます。父の意志を語る主イエスの言葉にとどまり、それを守るならば、私たちを罪から解き放たれるという主イエス自身によってもたらされる真実を受け入れるかどうかであります。
当時の「ユダヤ人たち」特にファリサイ派は、自分たちがアブラハムの子孫であることを誇り、自己満足に陥り、主イエスと対面しながらも、そこからかたくなに離れませんでした。主イエスは、「神の独り子であり、息子である私が永遠にあなた方を自由にするのであり、奴隷は、その家に永遠にはとどまれないのである」と言われました。
マルチン・ルターに戻って言いますならば、「奴隷的意志について」という著作のなかで、私たちは、神の奴隷になるか、悪魔の奴隷になるか、そのいずれかであって、中立はありえないといいます。それに対して、「愚神礼賛」などでよく知られていたエラスムスは、人間には神の似姿が損なわれて入るが、少しは残っており、救いに向かってある程度は自由であるといいました。そういう意味での自由意志が人間にはある程度残っていると反論するのであります。しかし、ルターはあくまでも、堕罪以降の人間には神を信じて、すべてをゆだねきる以外には救いの可能性はないと主張しました。私たちもそう信じます。
宗教改革主日に当たって、改めて聖書を心から信じ、父と子なる主イエスの十字架と復活に信頼して、信仰生活も社会生活も歩んでまいりたいものであります。アーメン。

望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。

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2008/10/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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