津田沼教会 牧師のメッセージ
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「福音に打たれる」(マタイ21:33~44)内海望牧師
マタイ21:33-44、2008・10・19、聖霊降臨後第23主日(典礼色―緑―)
イザヤ書5:1-7、フィリピの信徒への手紙2:12-18

マタイ21:33~44
 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋ただきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
 『家を建てる者の捨てた石、
  これが隅の親石となった。
  これは、主がなさったことで、
  わたしたちの目には不思議に見える。』
 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」



説教「福音に打たれる」(マタイ21:33~44節)内海望牧師
 今日のイザヤ書の日課を読むと、神さまが、雨の日も、嵐の時も汗水流して葡萄を丹精こめて育てる状況が書かれています。4節では、神さまが「私が葡萄畑のためになすべきことで、何かしなかったことがあるというのか。」とまでおっしゃっています。すべての手段を尽くして、愛する葡萄畑の世話をしたとおっしゃるのです。これは、私たち人間に対して神さまが注いで下さった愛情の深さを表わす言葉と言えましょう。聖書には、ときに感情的すぎると思われるほど、神さまの愛についての表現がちりばめられています。しかし、酸っぱい葡萄しか出来ませんでした。人間は神さまの期待を裏切ったのです。
 ここには、長い歴史を通して、預言者たちを遣わし、「私はだれの死をも喜ばない。立ち返って生きよ」と繰り返し、心を尽くして人間に呼びかけ続けた神さまの深いため息が聞こえてくるような箇所です。裏切られた愛情の痛みが伝わってくる文章です。
 今日の福音書のたとえにあるように、人々は預言者たちを袋叩きにしたり、殺したりするだけで、決して悔い改めて神さまの許に立ち帰ろうとはしませんでした。それが旧約聖書の歴史といってもよいほどです。
 しかし、人間の暴虐はとどまることを知りません。神さまが「自分の息子なら敬ってくれるだろう」と言って独り子イエスさまを地上に送った時、農夫たちは「これは、跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。」と言ってイエスさまを葡萄園の外に放り出して殺してしまったのです。
 この記事は、エルサレム城外のゴルゴタの丘で十字架につけられたイエスさまのことを指しているのです。ここに神様の痛みは絶頂に達するのです。独り子を殺された者の痛みです。
 しかも、「相続財産を奪う」ということは、まさに世界を神さまから奪い取って、自分たちの物とするということです。人が神さまにとって代わるという意味です。
 確かに、現代の人間の姿を見ていると、傲慢の極致にあるように思われます。まさに人間が神となり、神さまが創造された自然を尊ばず、思うがままに利用し荒廃させ、生態系をこわし、核兵器で強さを競い、聖なる戦いと称して、何千万の無辜の市民を殺戮しています。
 「人間を万物の尺度」と考えて生きているとしか見えません。
 ここで立ち止まって考えてみましょう。
 実際は、人間が神さまの独り子を十字架につけて殺した時、物語は終わったはずです。そのような人間は生き続けるべきではないのです。因果応報、罪を犯した者は滅ぼされる、という結果ですべて終わるのが当然なのです。私たちにもよく分かる考え方です。
 ところが、まさにここから驚くべき複因果始まったのです。イエスさまは自ら呪いの木である十字架に死ぬことによって、私たちの呪いを引き受け、私たちに復活の命を与え、祝福を回復して下さったのです。物語は、神さまの怒りの報復というもっとも分かりやすい図式で終わりませんでした。神さまの愛は、人間の想像をはるかに越えた豊かなものであったのです。このようにして、神の国は罪人に与えられたのです。(他の民族に与えられたということは罪人に与えられたと考えられます。)死すべき罪人が救われたのです。
 イエスさまは新しいイスラエルの土台、まさに「隅の親石」となられたのです。これは、衝撃的な出来事でした。だから、自分たちは正しく、救われるべきだ、罪人は罰せられるべきだと考えていたファリサイ派の人々は怒り狂ったのです。その意味では、徴税人、罪人と食事を共にし、その罪を赦すイエスさまに詰め寄るファリサイ派の人々は理屈に合っているのです。
 何度も繰り返し語っていますが、私たちは、死すべき罪人です。これは疑いもない事実です、私たちのうち誰が神さまの前で正しいと言えるでしょうか。
 私たちは、イエスさまの十字架の死をもっともっと真剣に考えなければならないのではないでしょうか。
 私たちの罪を贖うためには、神さまの独り子の死という代価が必要であったのです。それほど、私たちの罪は深刻なのです。
 しかし、イエスさまは罪に死んだ私たちを御自分の死によって復活させて下さったのです。私たちは、死すべき罪人です。これは絶対に変わらない事実です。しかし、私たちはキリストの十字架の死という代価によって死から復活した私なのです。これも絶対に変わらない事実です。
 「絶対に赦されない私が、絶対に赦されている」という全く矛盾した出来事の中で、私たちは生きているのです。論理的ではありませんが、私たちは、この二つの絶対に生きているのです。この二つの絶対を成り立たせているのが、イエスさまの十字架の苦難と死、そして復活の出来事なのです。
 復活の説教が少なくなったと言われ始めてから時が経過しました。しかし、相変わらず安価な救いが語られているような気がします。「罪の赦し」のためには、イエスさまの十字架の死がどうしても必要だったのです。私たちは、「死んでよみがえる」という言葉の意味をもう一度真剣にとらえ直す必要があります。死すべき私が、イエスさまの犠牲の血によって生きることが出来るのです。
 「福音に打たれる」ということは、この事実との出会いを意味しています。罪の深い淵から、復活の命へと引き上げられた喜びと感謝のうちに生きていこうではありませんか。

 
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2008/10/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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