津田沼教会 牧師のメッセージ
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「後にいる者が先になる」(マタイ20:1~16)
マタイ20:1-16、2008・10・12、聖霊降臨後第22主日(典礼色―緑―)
イザヤ書55:6-9、フィリピの信徒への手紙1:12-30

マタイによる福音書20:1~16
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたちのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」



説教「後にいる者が先になる」(マタイ20:1~16)
説教前の祈り
天にいます父なる神よ。あなたは、寛大な、慈しみ深い方であられます。私たちは、もともと、神の選ばれた民イスラエルに属するものではありません。また、私たちは、つきつめれば、第11時に、すなわち夕方近い、午後の5時に神によって招かれ、そのぶどう園で働くように導き入れられた者であります。しかし、私たちの周りには、まだまだ、父の憐れみと寛大さを知らずに、又それを知らされずに、人間としての自己の力によって生きようとし、苦しみ、もがいている多くの同胞がいます。
 しかし、私たちは、同胞にあなたの愛を宣べ伝える労苦の厳しさに、ついつい、つぶやき、相手の非をあげつらい、宣教のわざを放棄してしまいそうになることがしばしばであります。
 しかし、あなたは、そんな小さな私たちをあえて、用いようとされます。どうか、一人も、広場でむなしく時を過ごし、ぶどう園での働きに与ることのない人がでませんように、私たちの小さな宣教の業を、本日の福音のみ言葉を通して強めてください。キリストによって祈ります。

 本日の福音は、先ほど、お読みしましたように、マタイ20:1-16であります。それは、マタイ19章の終わりの、「しかし、先にいる者が後になり、後にいる者が先になる」という言葉と、20章16節の、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるであろう」という同じ内容の言葉で、囲まれています。そして、20章の始まりは、なぜならば、天の国は以下のように譬えられるからであるとなっています。
 その内部の譬えの記事を今一度思い起こしてみましょう。ある一家の主人が朝早く、彼のぶどう園で働く者たちを雇うために、広場へと、労働市場へと出て行きます。そして、彼らとその日1デナリオンの賃金で働いてもらうことに決め、空しくしていた者たちを彼のぶどう園へと派遣します。そして、彼はまた、第3時、すなわち9時頃、第6時、すなわち12時頃、第9時、すなわち午後3時頃に、同じように広場に出かけて行って、正当な賃金を支払うとの契約をし、彼のぶどう園へと出発させます。
 そして、最後に第11時、すなわち夕方近い午後5時ころに、出かけていくと、まだ空しく立ちすくんでいる人々を見出し、彼らに、「なぜ、何もしないで立っているのか」と聞くと、彼らは、「誰も私たちを雇ってくれなかったからです」と、答えます。彼は彼らにも、支払う約束をしてぶどう園へ行くように命じます。
 そして、夕方遅くなったとき、現場監督、すなわち管理人を呼んで、終わりの者から始めて、最初の者たちの順で賃金を支払うように命じます。夕方の五時ころから1時間ほど働いた者に、1デナリオンが支払われます。そして、最初に雇われた者たちは、自分たちの番が来た時、夕方5時から働いた者よりも、もっと多く支払われるだろうと期待しました。ところが、彼らも1デナリオンしか受け取りませんでした。彼らは不平を言い、主人に、「あなたは、一日の仕事の重荷と暑さに耐えて働いた私たちを、1時間しか、働かなかった者たちと同じ扱いにした」といってつぶやいていたのであります。
 それに対して、主人はその一人に言います。「仲間よ、私はあなたをだましてはいない。あなたは、私と1デナリオンの契約を決めたではないか。自分の分を取って、出て行くがよい。私が自分のものを、自分がしたいようにすることはできないとでもいうのか。それとも、私が良い者なので、あなたの眼は濁るのか、すなわち、あなたは私の気前のよさをねたむのか」と反論したのであります。
 この主人とは、何よりも慈しみに富んでおられる神であります。旧約聖書に出てくる神であります。確かにこのお方は、正義の神でもあります。主イエスも、終わりの日にすべての人を羊と山羊のように、その行いに応じてより分けると言われており、報いがあることを約束なさっておられます。しかし、それ以上に、はるかに、父なる神は、憐れみ深い神であります。「善人にも、悪人にも、雨を降らせ、太陽を昇らせる方」(マタイ5:45)であります。
 そして、私たちは、いずれも、突き詰めれば、夕方の5時になって、そのぶどう園で働くように招かれた労働者のような者であります。そして、しかしなお、私たちの周りには、まだまだ、主人のぶどう園を知らず、空しく広場で、市場で立ちすくんでいる人々がいます。そして私たちは、彼らもぶどう園に行って働くことができるようにとりなすように、それを喜んでなすように、主人である神は今も招いておられます。私たちは、教会の門をくぐる新来者を心から歓迎しようではありませんか。そしてそれは、主人である父なる神が本日の譬えから窺えるように、途方もなく寛大で親切である方であることを、凝視し続ける時にのみ、できることであります。
私たちに主人から与えられる1デナリオンとは、私たちの功績によるのではなく、父なる神の一方的な恵みによって与えられる永遠の命をも意味しています。そのことを、感謝しながら、私たちは、この世界というぶどう園ですべての人々が働き、誰一人あぶれることなく、永遠の命に与ることができるように、各人の持ち場持ち場で精一杯み国の宣教に励んでまいりましょう。アーメン。
 
人知ではとうてい測り知ることができない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなた方を守るように。
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2008/10/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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