津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神は愛である」(マタイ18:21~35)
マタイ18:21-35、聖霊降臨後第21主日(典礼色―緑―聖餐式あり)
創世記50:15-21、ローマの信徒への手紙14:1-18

マタイによる福音書18:21~35
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」




説教「神は愛である」(マタイ18:21~35)

 私たちは、本日のマタイ18章において、これまで、兄弟を躓かせないようにすること、小さな兄弟を滅ぼすことがないようにと、いった牧会的配慮が、主題とされてきました。そして今朝の18章の最後の個所18:21-35では、神の赦しと神の愛、忍耐がその譬えにおいてよく示されています。
ところで、私たちは、日々ささいなこと、取るに足りないこと、兄弟からの罪、例えば兄弟からの誤解や無視や嘲笑といったことで、悩まされる者であります。それは、兄弟、すなわち信仰の共同体の内部にのみ限らず、世の中の人間関係の中でもよく起こることでありますが、本日の個所では、先週までに引き続いて、中心は、主イエスによってもたらされた共同体のメンバーが、自分に対して罪を犯した場合に、何度赦せばよいかという問題が、ペトロによって主イエスに質問されています。ペトロは兄弟が自分に対して何度も罪を犯す場合、何回まで赦すべきなのでしょうか。7度までで十分でしょうかと質問します。すると、主は、7回までとは言わない、7の70倍まで赦しなさいと答えられたのであります。
創世記の4:24では、カインの報復が7倍なら、レメクの報復は77倍であるとレメクが報復を妻たちに誇っているのに対して、主イエスは、7の70倍まで、限りなく自分に罪を犯す兄弟を赦しなさいと言っておられます。
 しかし、これは、先週の福音でも言われていたように、兄弟を戒めることをしないということではありません。悪、兄弟の罪を見てただただ忍従せよというのではありません。
 今日の2番目の文章、譬えでは、ある王である人と悪い僕、けちな、恨みをもったしもべの譬えが出てきます。
 この専制君主は、非常に変わった王であります。おそらく、大きな州を任されていた長官か知事のような家来が、とてつもない横領を犯したのであるかもしれません。1万タラントンの借金、横領か何かをした官吏が引き出されたのであります。そして、ただちに、処刑したりするのでなく、妻も子も売り、自分も売りに出されて、残りの生涯をすべて返済にあてさせようとしたのであります。ところが、その悪党の家来、しもべは、土下座して「主よ、返済するまで、待ってください。返しますから」とひれ伏すのであります。
この王は、それを見て、はらわたが痛む思いになり、驚くべきことには、その返済を免除して、その場から行かせてくれたのであります。これは、通常では考えられない寛大さであります。
ところが、この「悪い」僕、「濁った目の」しもべは、今度は自分のしもべ仲間に会い、たったの100デナリオンの貸しがあるのを見つけて、のどをしめ、すべて返せといい、「待ってくれ、必ず返すから」という願いも拒んで、牢に入れて労役でまかなわせようとしたのであります。王の家来であり、おそらく彼らも行政官であった仲間たちは、この出来事に心を痛め、すべてを詳しく主人に伝えたのであります。すると、今度は、主人はこの悪い僕を召しだし、拷問する牢役人に引き渡して、返済まで、死ぬまで苦しめたというのであります。
私たちは、心から、兄弟の罪を赦さないなら、天の父なる神からも赦されないと、主は言われるのです。しかし、私たちは小さな子供のように、父なる神にすべてをゆだねて、低き者にならない限り、天の父のように完全な存在にはなれません(マタイ5:45)。人間の徳によって人間関係をよくするやり方では、根本的な解決にはなりません。ゆきつくところは、主イエスを十字架におつかせになってでも、人の罪を赦そうとされた父の愛によってのみ、真の心の平安と祝福に与れるのであります。アーメン。
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。





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2008/10/05(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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