津田沼教会 牧師のメッセージ
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「『魂の配慮』ということ」(マタイ18:15~20)徳善義和牧師
マタイ18:15-20、2008・09・28、聖霊降臨後第20主日(典礼色―緑―)
エゼキエル書33:7-9、ローマの信徒への手紙12:19-13:10

マタイによる福音書18:15~20

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたし
もその中にいるのである。」



説教「『魂の配慮』ということ」(マタイ18:15~20)徳善義和先生

今からもう10年以上前になるでしょうか、まだ、私が引退をする前の、それでも神学校で教えている最後の時期にかかるころだったと思いますが、大体10数年前。私はあるとき、土曜日のルターのことについての講座で、ルターがワルトブルクのお城の中にいたときに書いた手紙、これを全部翻訳しまして、毎時間、一つか二つ、翻訳をしては、学生たちに配って、ワルトブルクの城から、もう、いろんな手紙があるんです。実におもしろい、50何通残っているんですが、全部翻訳してみたんですねえ。いいのだけを翻訳したんじゃなくて、ともかく全部するというのは、一つ意味がある。選択の余地がありませんから。選ぶと私が選んでいるんですけど、もう全部翻訳をして、ちょうどいいくらい、50いくつ、15回の講義で一回に3つくらいずつ読めばいいというのですから。
 これはワルトブルクの山の上のお城に一人かくまわれている、ルターのウィッテンブルクの町で、反対があるのに宗教改革を進めている同労の兄弟たちに書いた手紙を中心にして、いろんなことが出てくる。とてもおもしろいんです。というのはですね、たとえば、修道院で質素な生活をしていた、お城にいる、これは実際に守り城ですから、守備隊と一緒に食事をするようになる。食の変化ですね、修道院は、きっと素食でしょうが、山の守りの兵隊たちというのは、一体結構な食事を、まあ、兵隊食を食べている。便秘になるんですね、薬を何とかしてくれ、これ以上悪くなると、身の危険を冒してでも、町に出て行って、医者に診てもらわなきゃならんというようなことを書いてある文がある。
 で、博士さま、こんな山の上の城におこもりで、毎日が暇でお困りでしょう。お慰めしますから、一度狩りに行きましょう。隊長さんが、狩りに連れて行ってくれる。ほんとに、山狩りですね。で、マルチン・ルターもウサギを追ったりで、他に何を追ったか知りませんが、ウサギをつかまえるんです、1匹。で、帰って来たとき、手紙を書いてるんですね、今日は狩りに、つきあって行った、殿様たちが宮廷の音楽や踊りと宴会ですね、そして狩りにうつつを抜かすというけれども、もう私は一回でこりごりだ、一生のうちにもう二度と行くまいと思うと、犬がウサギを捕まえてきて、袋につっこむのに大変だった。こんなことは私の性に合わない、と書いたりしているのもあるのですが、まあ、大事なのはウィッテンベルクで宗教改革を進めようと思っている、まあ大体は若い人たち、牧師もいれば、牧師ではない神学者のメランヒトンのような人もいますが、そういう人たちにあてて、今何をすべきか。山の上で、今自分はどういう執筆作業をしているか、で、これをどういうふうに出版してほしいか、そういう手紙です。
 私は、わりと、平凡に、普通に、淡々と翻訳をして、そしてそれを必要に応じて、解説をして、ルターが書き進めていた著作はどういう著作だったか、というような説明をしながら進めていったんですが、ずうっと読んでいって、それまでもあったんですけど、ある日、私は、研究室で準備のために、それを読んでいてですね、ごーんと打たれたんですね。そう言えば、同労の人たちに書く手紙の中で、マルチン・ルターはいつも最後に、私のために祈ってください。私も牧師の一人ですから、神学教師をしていましたけれども、折々に兼任で40数年の間に、いくつかの教会の牧師をいたしました。大岡山教会、もう30年近くも前です、田園調布教会、20年前、武蔵野教会、10年前、それぞれ1年から2年、まあ主として日曜日だけなんですけど、そういうときに、どうしても牧師としての手紙を差し上げなければならないときがありますし、そういうときは大体、まあ特別の状況にあるわけですから、ご主人が思い病気にかかっている奥さんにお手紙を出したりですね、私はいわゆる訪問したりして牧会できませんから、もっぱらもう、日曜日にしか行かない私ができる牧会は、手紙というふうに教会の方、役員の方に申し上げていましたので、いくつも手紙を書いた。そうすると、私は、お祈りしています、主人とお二人のためにお祈りしています、ご家族の皆さんのためにお祈りしています、と書くんです。
 ですから、私はそれを書くだけでなく、心をこめて祈った、そして神さまは、そのときどきに、み心に適って、私の祈りに聞いて下さったと思っていましたけれども、しかし、そういう手紙を書いた時に、牧師を数十年続けてきてね、あなたのために祈っていますと書いても、私のために祈って下さいと書いたことがなかった。これが、ルターの手紙を読んだ時に、ぐーんと私に来たことなんですね。それまで、ほんとに淡々と訳していた。私は翻訳をする時には、通訳と同じで翻訳機械のようにずうとやっていきますから。ルター研究所でも若い先生たちが、いろいろ一緒に翻訳してくれるんですが、先生たちが半年かかるようなところを、私は、十日でやってしまうんです。そりゃ、速い、機械になりきってやるんですね。で、そういうふうにして淡々と読んでいて、それに必要なコメントをして、講義をしていたつもりが、全然違う角度で、私のために祈ってください。もう60過ぎていましたから、その時に私は思ったんですね。マルチン・ルターのこの手紙を通して、私のために神さまがくださったプレゼントだ。60歳過ぎてまもなく引退、そして、老後になって、最近は有難いことに、後期高齢者という称号までいただいて、で、そういうふうになっていく私のために、神さまは、今までお前は、あなたのために祈っていますと手紙に書いたかもしれないけれど、これからは、私のために祈ってください、と書くようになるだろう。書きなさい、素直に書きなさいと、神さまは言ってくださったような気がしてですね、がーんと打たれたんですけど、これは、打ちのめされてしまう打たれ方ではなくて、ほんとに私は改めて、牧会者とは何であるか、その一句から、マルチン・ルターの山の上の手紙のその一句から、学んだような気がしました。
 で、今日、私たちが読んでいる個所も、そういうことにつながっていると思います。で、これは、マタイの福音書に書いてあるこの言葉をずうっと読んでいって、そのもとになっている旧約聖書と比べてみるとよく分かるんですが、最初のところはあなたと一対一でよく話をせよというところは、レビ記に出てくるんです。で、レビ記に出てくるんだけれども、違うんですね。レビ記に書いてあるもののイエス・バージョン、イエスさまの言い方に変わっているんです。最初のところ、そうですね、レビ記にどう書いてあるかと言うと、心の中で兄弟を憎んではならない、同胞を素直に戒めなさい、兄弟と同胞というふうに書いてあるんですけども、まあともかく憎んではならない、素直に戒めなさいと。イエスは、少し違った言い方をしている。兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って、二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。兄弟を得る。で、次のところは、これは、申命記の19章、同じく15節なんですが、二人か三人で、一人でだめなら、二人か三人でというのは、レビ記と申命記、全然違う文脈で出てくるんですから、違って当たり前なんですけど、犯罪行為のときですね、旧約聖書の文脈でも法廷などというものはなくても、いわば、一種の裁判の係争ケースです、ですから犯罪なんです。不法な罪、犯罪を犯す人がいたら、その人に対しては、二人、三人、ちゃんと証人になるように、二人、三人でということが書いてあるんですけど、イエスさまはそう言わない。書き換えたんです、置き換えたといったらいいでしょうかね。一人で話をしても聞かなければ、二人、三人で話をして、二人、三人がきちっと証人になるように。つまり、旧約聖書、レビ記の言葉と、申命記の言葉をイエスは、イエスの弟子たちの群れに、そしてやがて、その弟子たちの群れの周りに集まってくる信仰者の群れ。ここでは、教会とこの文脈は訳していますけども、集会ですよね、集団といったほうがいいかもしれない。パウロから以後の使徒の時代になると、エクレシア、教会と訳されるエクレシアという単語を使っているんですけども、このときはまだ、集会とか集団、グループ、というような意味なんですが、そういう集会の中のあり方として、全体を話しておられる。
 それに続いた文脈は、これは、二人、三人の文脈は、どういう文脈か。今日読んだ前、半分のところでは、どっちかといえば、裁判的な文脈ですね。証人になる。しかし、この二人、三人の文脈は、教会の祈りの文脈だ、というところで、すぐれて、信仰者の共同体の出来事としてイエスが弟子たちにお話になった、ということが分かります。
 で、皆さん方は、内海望先生がここに見えているから、あの「慰めと励ましの手紙」のことを折に触れて話しに聞いていらっしゃると思いますが、そういうことも含めて、私も
ですね、改めて、私のために祈ってくださいというところから始まって、マルチン・ルターにおいて、「魂の配慮」ということはどういうことなのかなと思った。
 魂の配慮というのは、普通、我々がキリスト教用語でいうと牧会と、牧師の会、牧師が教会を牧する、羊飼いの仕事をする、そういうところで来ているんです、牧師が教会に対して、羊飼いの働きをする、というのは、これはカルヴァンから始まった考え方ですね。で、マルチン・ルターはそう考えなかった、で、私はそういう意味でいうと日本のキリスト教はこの面でですね、カルヴァンに影響を受けている、あるいはちょっとひどい言い方をすると毒されている、という一面だってありはしないかとすら思っている。
 考えてみてください。このイエスの弟子たちにお語りになった勧めの背後にはどういうことがあるだろうかと思うのですね。事柄が事柄として起こって、教会の中で問題が起こる、あるいは問題を起こした人がいたら、まず一対一、いわゆる世に言うプロシージャーというやつですね。事の筋道を立てて、筋立ててこういうふうにやっていけばいいんだ、というマニュアルではないですね、これは。
 で、マニュアルのように見えるこの教会の中でのもめごとの処理のマニュアルのように見える、このイエスさまのお言葉の背後に何があるか。いつも、我々はマタイにしても、マルコにしても福音書全体の中で読んでいかなければならない。イエスがどういう思い出いつも、弟子たちにも、弟子たちはしょっちゅうイエスさまに叱られているんですが、とりわけマタイは弟子たちを戒められるイエスさまの姿を何回にもわたって、示しているんですけど、なかなかそれでも分からない弟子たちの姿がある。私たちと同じだなというふうに思いますが、群衆に接しておられる、ついこないだも、五千人の給食、私はあの日珍しくよその教会で説教したのですが、全然違う文脈で話をしました。いつも私たちが読まない、ちょうど、しかもこの新共同訳の聖書は、ページが違っているところがあるんです、ページのこの切れ目になっている。ヘロデの誕生日の宴会の話が出て来て、ページをめくるとあの五千人の給食の話が出てくる。で、私は、その二つの話を、ヘロデの誕生日の宴会か、荒野の五千人の五つのパンと二匹の魚という、そういう食事かのね。イエスさまが招いておられるのは後者のほうです。それに対して、私たちは選択を迫られているんですよね。ヘロデの誕生日の宴会、ついにはヨハネの首までが宴会の興として供される。
 そういう宴会、を選ぶのか、宮殿の。それとも、荒野でイエスの五つのパンと二匹の魚を裂いて、感謝して分け与えてくださる、荒野の宴を選ぶのか。絶えず、その問いの前に、その荒野の宴を支配しているのは、イエスの愛と憐れみですね。イエスの深い、愛と憐れみなんです。イエスは弟子たちをきつく叱っておられる、まだ、分からないのかと、とこう言っておられるときでも、この深い、憐れみによって、叱責をしておられるわけで、ここでも、教会にもめごとがおこったとき、まあ、このごろはそういうのがあるんですね。社内でそういう規定を作っておかなければいけないんです。社内で問題がおこったとき、危機対応能力と言うんですが、それにどう対応するかという。心ある人たちはいつもそれに備えているはず、ですね。
 で、もちろん、神学校、ルーテル学院大学でも、ちゃんとそういうのは日ごろから考えてある。セクハラ委員会もありますし、まあ、その他、色々ね。委員会やら何やら作って、世の中で起こりうることは、学生が五百人もあれば、教師も数十人になれば、いろいろと起こりうる、と考えてマニュアルを作ってあるんですが、そいうマニュアルの一つがここに書いてあるんじゃない。
 この背後に、イエスの憐れみがある。で、憐れみというのは、皆さん方お聞きになって、群衆が飼う者のない羊のようであるのを御覧になって、イエスは深く憐れまれた、と書いてある個所がある。マタイにもあります、どの福音書にも出てくる。深く憐れまれた、腹を痛めた、はらわたを痛くして、群衆のことを憐れんでおられる。この憐れみの延長線上に、その上に、主の憐れみの上に、このマニュアルがある。
 そう、我々は思わなければいけない。もちろん、これは、だから、今でも、教会の中で何か事が起こったときに、そのまま実際に適用していくんですけど、しかし、主の愛と憐れみを忘れるならば、これは、単なるマニュアルになって、聖書の言葉じゃない。
 で、もちろん、会社で、社長さんがたまたまクリスチャンで、いや、聖書にだってこういうふうに書いてあるんだから、まず一対一でやって、それでだめなら、二三人連れて行ってやって、そして、次に、少し広いレベルで、それでも言うことを聞かなければ、これはしょうがないなということになるのかなあと、その話でもちろんいいんだけれども、イエスさまが教えておられることならば、主の憐れみ、神の憐れみを感じないでは、このマニュアルは受け止めることができない、ということになるだろうと思います。
 で、それは、どういうことでしょうかね。で、あの内海先生の大きな翻訳をきっかけとして、私は、また、私なりに勉強をしてみるわけですが、うん、これはおもしろそうな論文があるぞ、と思うと三鷹に行ったついでに、図書館でコピーしてくるんですね、数十ページ。この頃、困った、そういうものは、私の研究室にあるんですけども、研究室のどこにあるのか、たいてい分からなくなっていますから、図書館で借りたほうが速い。で、コピーして読んでみるわけですね。インターネット、便利ですね。アマゾン、アマゾンというのはインターネットで本屋さんで一番大きな大手と言っていいでしょう。
 日本語のでも、英語でも、ドイツ語の本でも、それぞれの国にアマゾンという会社ができていて、もうコンピューターで、インターネットで注文すると、ドイツからの本でも在庫さえしていれば、十日で、私のところに本が届きますから、大変便利。私は、本買うのやめたと宣言したのですけども、家内にもそう言って、家内もほっとした顔していましたが、また、こっそり買ってるわけですね。で、十日で届くんですけど、送料が高い。十日で来るということは航空便で来るということですから。アマゾンというドイツの会社は、日本でもそうだと思いますけど、処理をほとんど全部コンピューターで処理する。注文したら、御注文受け取りました、取り消しは何日以外に、このアドレスにしてくださいと。
品物をお送りしました、ついては、返却したいならそのまま、お返しください。見てからではだめだ、そのままお返しくださるなら結構です。まあ、私はいつも買うんです。で、牧会学の本を買った。で、ひそかに願っているわけですよね。私は、キリスト教の歴史の研究ですから。
 牧会ということについての歴史の変遷、が、1章書いてないかな、その牧会学の先生なら、そういう1章、歴史という1章を書いてるだろうと。ドイツ語では牧会とは書いていません、魂の配慮ですね。魂の配慮の歴史、そうすると羊飼いが羊を飼う、という意味じゃない。これは、カルヴァンなんです。その本で分かった、私は。で、おぼろげながら、私は知っていましたが、マルチン・ルターはそうじゃない。簡単に言えば、中世とマルチン・ルターだけ、今比べてみると、よく分かるんです。中世は、魂の配慮という言い方があるんです。ラテン語で言います。それは、魂たちという複数形ですね、魂たちの配慮という、複数形です。で、だれの魂をというふうに考えてみている。司祭が、聖職者なんですね。信徒の魂たちを、複数形、配慮する。という行為は、司祭が教会で行うサクラメントに尽きるんです。教会にいらっしゃい、神父様待ってますよ、告解、悔い改め、改悛の秘蹟をうけたいなら、それじゃあ、こちらの部屋に来てください。お次の方どうぞ。すだれ越しに、私はこんなことしました、あんなことしましたと言うと、それをイエスさまが赦してくださいます。あなたはそれがほんとに悪いことだと思うなら、赦していただいたんだから、家に帰って、1週間、塩とパンで過ごしなさい。と言ったりするわけなんです。
 昔、私たちが見た禁じられた遊びでも、あの少年ミシェルにも、神父様はそういうのをしましたが、じゃ、教会堂に行って、教会堂の床にひざまずいて、聖壇の前で、主の祈りを十回、してきなさいと、こう言った場面があったかと思います。
 で、マルチン・ルターがこのラテン語の言葉をこの魂たちの配慮というラテン語の言葉を、ドイツ語にした。そして、マルチン・ルターはドイツ語に訳した時にもそうですけれども、内容的にも「魂たち」ではなくしたですね。「魂の配慮」。魂の配慮というのは、魂たちというのでなく、一人一人の魂を配慮する。だから、そのときは、一つですよね。しかも、マルチン・ルターは、神が一人一人の魂を配慮してくださる。というふうに理解する。すぐさま、司祭が、とこう言わない。神さまが一人一人の魂を配慮してくださる。
 だから、私たちは祈らなければならず、そして、マルチン・ルター自身も、そのために神さまがあなたの魂も配慮してくださるように、慰めてくださるようにと、いたわってくださるようにと、ほかの人に祈ってほしいと、言ってるわけです。
 私のために祈ってください、と。十年ほど前に、私にショックを与えた、あのルターの手紙の、ほとんど結びの言葉ですね。結びの言葉の背景には、実は、牧師であろうと信徒であろうと誰であろうと、神さまが一人一人の魂を配慮して慰めていてくださる。そこで、私たちが受け取るべきものは、神さまからの慰めなんだ、ということを、ルターは牧会、魂の配慮というキリスト教の言葉使いですよね、その用語の背後に込めて、中世の考え方と違う。これが宗教改革の考え方になった。だから、牧師が信徒の魂の配慮をすることができるのは、牧師もまた神さまから、魂の配慮をいただいてから、神さまからの魂の配慮の結果、神さまから慰めをいただいているから。だから、牧師は信徒一人一人の魂の配慮をし、神さまの慰めを伝えることができる。という牧会になっていく。
 まあ、厳格な、厳格主義のカルヴァンと違うんだなあと、改めて私は、私はその本のたった1章読むのですから、私は牧会学の専門ではありませんから、その1章を読めばいいんです。高くつきますが、大きな本買って、たった50ページしか読まないと。でもね、その1章読んで、ああ、この本を買ってよかったと思ったんですね。
 で、その文脈で、今日、私は、今年はですね、フレッシュにその本を読んだところで、この文脈を読んでみるとよく分かる。兄弟を戒めたり、兄弟と関わる、兄弟のもめごとに関わるんですよ。その関わり方は、関わらなきゃならないと言っているんです。見て見ぬふりをするんじゃなくて、やっぱり関わらなければならない。心と心を開いて関わらなければならない。これは、旧約と大きな、レビ記の言葉と大きな違いですね。レビ記の言葉は、心の中で兄弟を憎んではならない。もう、そこから始まってるんですから。もう、そうじゃなくて、もうすっぱり、そして、これは、終わりは、二人三人祈るという、そういう文脈ですから。全体が神の憐れみに包まれた言葉として聞かなきゃならない。
 で、牧師だけじゃない、信徒だって、そういう意味では一人一人の人と、そういう話をすることもあるだろう、と思います、相談を受けてね。そのときに、心を開いて率直に話をしながら、しかし、神の魂の配慮、神の慰めをいただいているんだということを心に思い浮かべながら、その人と話をしないと。まあ、世の中で言っているような処理の仕方で、これはこうしてこうなるんだ。私なんかそういう、結論を速く出しすぎるタイプですから、家内にもしょちゅう言われる。三鷹の教授会でもよく言われた。徳善先生のは結論が速いって。間違ってはいないみたいなんだけども、こうぱあっと出ちゃう、という感じを与える。
 こういうことがマニュアルにあるとそうなる。神の慰めをしっかりと心に留める。神さま、私の魂に慰めをください。私の魂の配慮のために、兄弟たちよ、どうか、私のために祈ってください。という思いの中で、このことが、起こるかどうか。
 で、今日の、よく、こういう規定は、マタイ福音書における教会規定、という表題でコンメンタリーなんか、書かれるときがあるんですね。で、教会規定、危機対応の仕方、という問題ではない。その背後に、我々一人一人、牧師も含めて信徒一人一人が神の慰めをいただいて、その慰めの故に、その慰めをしっかり心に留めながら、その慰めによって自分が慰められて、心が慰められれば、心が暖かくなるんですから、その慰めをいただいて兄弟に、この会話の結びには、すぐ分かってもらえないかもしれないけれども、しかし、この会話の行き着くところは、神さまの慰めが彼の中にももたらされるように、この出来事を通して、当事者にとってはつらいことかもしれない。そういう話をしなければならない。で、この出来事を通して、私たち二人ともが、心が傷ついたり、心が病んだりするのではなくて、神さまの慰めをもう一度いただくことができるように。その兄弟と一緒になって二人、三人とここに書いてあるんです。一緒に祈ることができるように、そういうつながりの中で、教会のさまざまなことが、語られていくという、そういう教会の姿がここに示されているというふうに思うんです。で、弟子たちはまだ、自分たちの周りにやがて形成されてくるであろう、信仰の集団の事柄について知らない。使徒言行録は、もちろん、まだ始まっていないから知らないんです。
 だから、使徒言行録の中に身をおいたときに、ペトロにしても、ヤコブにしても、その他の兄弟たちにしても、このことが分かってくる。神の憐れみによって生きる、生かされる。神の憐れみによって、兄弟と話し合う。そういう魂の配慮の姿を知らされていくということに、なるのだというふうに思います。
 そうなら、私たちはこのイエスさまのお勧めがあるとおりに、私たちの群れのためにも、私たちの信仰者としてのお互いの交わりのためにも、共に祈り、あなたのために祈っていると言うことができ、そして私が比較的生涯の終わり、牧師生活の終わりになって、がーんと知らされたように、私のためにも祈ってください。こういう文脈の中で、教会のこと、教会の兄弟姉妹たちのことを、考えていかなければならないのだ、その大きな文脈の中で、私は今朝の福音書を読みながら、そう、最近の私の読書の一端を踏まえて、心に刻んだことでした。
お祈りしましょう。
 天の父なる御神さま。あなたは御独り子を通して、そのはらわたを痛ましめるほどに、私ども一人一人のために、憐れみと配慮をしてくださり、私たちの思いを超えた、慰めをその時々に必要な形で与えてくださいます。今日もそのような、あなたご自身から、イエスを通して私たちに注がれる、あなたご自身の配慮と慰めを私たちの魂にいただくことができ、そのあなたの慰めの中で、教会のこと、教会の兄弟たちのこと、そして、いろいろなことが起こってなお、私たちが共に導かれるように。共に祈ることができるように、導かれていくことを、共々に心に刻みました。主よ、どうかこの津田沼教会の信仰の群れをあなたが、そのように神の憐れみに生きる信仰の共同体として、導いてくださいますように。どうか、私たち一人一人の信仰者の交わりが、あなたのために祈ります、私のために祈ってくださいと、心の底で思い続けながら、過ごしていくような者となりえますように、あなたの導き、慰めをどうか私たち一人一人に与えてくださるようにお願いをいたします。感謝をして主のみ名によって祈ります。アーメン。
  
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2008/09/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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