津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「私たちも恵みの食卓に与る」(マタイ15:21~28)
マタイ15:21-28、2008・09・07、聖霊降臨後第17主日(典礼色―緑―)
イザヤ書56:1-8、ローマの信徒への手紙11:25-36

マタイによる福音書15:21~28
 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。



「私たちも恵みの食卓に与る」(マタイ15:21~28)

私たちは、本日、聖餐式に与ります。本日のマタイ15:21-28は、直接、聖餐そのものに関わる記事ではありませんが、聖餐礼拝の本日に相応しい福音の記事であると思います。
この「カナンの女の信仰」と新共同訳聖書では小見出しがつけられている出来事は、マルコでは、シリア・フェニキアの女の信仰となっています。二つを対比して読むと興味深いのですが、今は、ただマタイによって、大筋をもう一度思い起こしていきたいと思います。
「主イエスは、そこから出て行き、ティロス、シドンの地域へ難を逃れた」というふうに読むことが出来ます。彼が、ユダヤ、イスラエルの領域を離れて、シリアの方面まで、実際に行かれたことがあるのかどうかは、よく分かりません。
さて、すると、カナンの出の女の人がやって来て言うのであります。「ダビデの子、主よ、私を憐れんでください、なぜなら、私の娘がひどく悪霊に取り付かれているからです」と。ところが主は、いつもの主イエスと様子が違います。彼は何もおことばを答えられないのであります。しかし、女の人はあきらめません。弟子たちは、たまらなくなって、主のもとにやって来てたまらなくなって、こう乞います。「主よ、あの女を退散させてください」、あるいは、「その願いを聞いてやってから、早々と立ち行かせてください、なぜなら、叫び声を上げて付いてきていますから」と。しかし、彼女はひるまず、「主よ、私を助けてください」、とひれ伏し、繰り返すのです。このカナン人は、神の子供たちであるイスラエルの民とは異なる異邦人を現しています。そして、ひょっとしたら、後のマタイの教会における異邦人であった者たちを暗示しているのかもしれません。
主は、こうお答えになって言われます。「私は、イスラエルの失われた羊たちのもとへ意外には遣わされていない。」しかし、「主よ、助けてください」と女の人は食い下がってきます。主は、「子供たちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよろしくない」と答えられます。すると、女の人は答えます。「はいそうです、そして、子犬たちも、彼らの主人の机・食卓から落ちるパンくずは食べるのです。」そして、ついに主イエスは、その時彼女に言われました。「おお、女よ、あなたの信仰は大きい。あなたが願っているとおりになるように。」その時から、その娘は癒されたと結ばれています。
私たちは、この物語を読む時、異邦人の百人隊長の同じような記事を思い起こします。
この時も主は、このような信仰を、イスラエルにおいて見たことがないと言われて、そのしもべを癒され、やがて、いつの日か東から西から、北から、南から大勢の者たちが神の祝宴に与ると約束されたのでした。
確かに、本日の日課のイザヤ書にも、ローマ書にもありましたようにユダヤ人たちは、異邦人に対して、神の選びについてはより優れた地位に立っています。しかし、異邦人でも、その旧約聖書におけるイスラエルの特権を認め、謙虚に主に哀れみを求め、くじけることのない信仰に立つ時、主イエスは、その信仰をも受け入れてくださるのであります。そしてそれは、私たち現代の日本人のキリスト教の信者も同じであり、本日のカナンの女と同じ地位に立っています。私たちは、罪を担い、それを自覚して洗礼を受け、信仰を告白し、主イエスのもとに集められた者たちであります。
そして、私たちは、聖餐式のある本日、主の食卓の周りに集います。そのとき、自分の罪を告白して主の食卓に与るだけではなく、お互いに円を描いて両隣りに立つ兄弟姉妹の罪のためにも、赦しを祈りあう者でありたいと思います。そして、世に向かっても、カナンの女のような忍耐強く粘り強い信仰と謙虚さを持って、主イエスから、「あなたの信仰は大きいなあ、あなたが願うとおりになるように」と励ましていただいて、実生活の中で朱を証ししていく信者になりたいと思います。アーメン。 
スポンサーサイト
2008/09/07(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。