津田沼教会 牧師のメッセージ
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「五千人への給食」(マタイ14:13~21)
マタイ14:13-21、2008・08・24、聖霊降臨後第15主日(典礼色―緑―)
イザヤ書55:1-5、ローマの信徒への手紙9:1-5

マタイによる福音書14:13~21
 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。



説教「五千人への給食」(マタイ14:13~21)

 私たちは、この聖霊降臨後の典礼色緑の季節に、主イエスのなさったみ業と、お語りになったみ言葉を、今年はマタイ福音書を通して聞かされています。本日の福音、マタイ14:13-21は、まことに驚くべき、常識では信じることのできない「贈り物の奇跡」が記されています。
 ある人は、教会を批判して、牧師は主イエスが、五つのパンと二匹の魚で五千人もの群衆の飢えを満たし、満腹にさせたなどとありえないことを説教して、信者や求道者・新来者などから献金をまきあげていると本日の記事について単純で率直な怒りをあらわにしました。私たちは、その人を笑い飛ばすことはできません。一体何が、この記事・出来事において言われているのでありましょうか。これが、聖書に書かれているのでなかったなら、私たちとて到底信じることはできない豊かな「贈り物の奇跡」が記されているのであります。この「五千人への給食」の奇跡は、非常に大切な出来事であったので、四人の福音書記者が、それぞれ微妙に違いのある書き方で、この奇跡を書き残しているのであります。
 マタイによる福音書のこの部分の記事を今一度思い起こしてみますと、次のようなものであります。マタイでは、洗礼者ヨハネが殺されたことを知って、主イエスは、あたかもこの文章の少し前のナザレでの出来事に続いて、ひそかに舟に乗り、難を逃れて、寂しい所へ向かわれたのであります。ところが、それを知った群衆は、陸路で方々の町々から、主イエスの向かった場所に先に着いたのであります。それは、ガリラヤ湖の北西であったか、それともヘロデ・アンチパスの領土外である湖の北東のベトサイダの付近であったかもしれません。
 主が舟から上がられると、群衆を見て、深く憐れまれ、そのうちの病人たちを癒されたのであります。そして、時がたち、夕方になったので、弟子たちが近づいて来て言います。
 「もう時がたちました。群衆を解散してください。そうすれば、彼らは、近くの町に行って食料を仕入れることができましょう。」すると、主は言われます。「彼らは出て行く必要を持っていない。あなた方が彼らに食べることを与えなさい。」すると、弟子たちは答えます。「私たちは、五つのパンと二匹の魚以外には何も持っていません。」主イエスは言われます。「それを私のところへ持って来なさい。」そして、群衆には食事のために横になるように命じられました。そして、彼らがそれらを持ってくると、主イエスは、天を見上げて、パンを取り、賛美の祈りを唱え、弟子たちに与え、弟子たちは群衆に与えました。そして、すべての者が食べて、満腹しました。そして、食べている者は、女と子供を別としておよそ五千人であった、というのであります。
 マタイの原文を調べると、マタイの最後の晩餐における食事(マタイ26:26以下)とよく共通した語句から成り立っています。これは、主イエスが最後の晩餐で設定した聖餐式とよく似ているのです。五千人にパンを増幅させた時の奇跡の方法や詳しい叙述は何も記されていません。ただ、パンくずの残りのものは、12の籠に一杯になった。そしてそれを弟子たちは集めて持って来たとだけ、結果が記されています。主イエスが、与えられたパンとは確かに世俗的な・非宗教的な、そして、肉体的な必要を満たすものでもありました。主イエスは天と地のすべてのものの上に権威を持っておられる主でありますから神の子に不可能なことは何もなく、地上の人々の飢えを具体的に満たし、満腹にすることもお出来になります。
 けれども、もっと、必要なことは、私たちに、朽ちることのない真のパンを、聖餐を通してお与えになられることであります。私たちが霊的に渇くことのない食物である主イエスの体であるパンを主イエスは、本日の出来事を通して伝えているのであります。
私たちは何で週ごとに、日曜日教会に集まるのでしょうか。それはこの主イエスのからだ、真の命のパンに与るために、私たちは、日曜日ごとに、教会に招かれ、礼拝に与る、そして、聖餐式に与るのであります。たとえ聖餐式そのものがなくても、実はこの聖卓の周りに集うために集まるのであります。パンの奇跡に与った群衆は、その意味について、この時点では、おそらく気づかなかったでありましょう。しかし、最後の晩餐の席を通し、弟子たちは、五千人の給食の出来事を思い起こして、その意味を悟ったのであります。
 私たちは、しばしば、罪に陥ります。主イエスこそがただ一人朽ちることのないパンをお与えになることの出来る方であります。そして、罪に苦しんでいる時にこそ、進んで私たちは聖餐に与るべきであるとルターも言っております。
  平凡な日常生活の中で、私たちにとって、唯一の救いであり、真理である聖書を中心として、み言葉と共に生活していくことが、危機から免れ、キリスト者として自由に歩む上で不可欠であります。
 私は、暑い夏で、その疲れが出て、誘惑や試練についつい負けてしまうこの時期でありました。しかし、そんなときにも、牧師として日曜日に説教を通して、新たな再出発が出来ることを幸いに思います。まだまだ、残暑は続きますが、毎日主いえすの御からだとそれを指し示す全聖書から離れないで生活を送りましょう。祈ります。 
 天の父なる神さま。
 私たちは、世にまたとない、主イエスと聖書というかけがえのない宝を与えられている一人ひとりであります。力足りず、時として、誘惑に負け、怠慢な生活を送ってしまいがちですが、あなたの朽ちることのないパンであるみ言葉に従って、常に悔い改め、新たな歩みをさせてください。そして、あなたとみ子の証し人として、この世の中に、み言葉に導かれながら、出て行くことが出来ますように。キリスト・イエスによって祈ります。アーメン。






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2008/08/24(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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