津田沼教会 牧師のメッセージ
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「思いがけない招き」(マタイ13:44~52)内海望牧師
マタイ13:44-52、2008・08・17、聖霊降臨後第14主日(典礼色―緑―)
列王記上3:4-15、ローマの信徒への手紙8:31-39

マタイによる福音書13:44~52
 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 「あなたがたはこれらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」



説教「思いがけない招き」(マタイ13:44~52)内海望牧師

 先週に引き続き、「天の国」のたとえです。44-46節を読むと、「天の国」は「宝」のようなものであるとされています。ただ「宝」と言われてもどういうものかはっきり分かりません。ただ、それが「持ち物をすっかり売り払ってでも買いたい」と決心するほど貴重な宝であることは分かります。
 ところで、今まで持っていたものを「すっかり売り払う」とはどういうことでしょうか。それは持ち物を全部なくすということです。今まで持っていたものを手放すということは大変な勇気を必要とします。私たちは多くの物をもっていなくても、どんな小さな物でも手放したくないし、むしろ、それにしがみついて生きています。
 「天の国を信じる」ということは、自分の人生にもう一つの宝を付け加えるというようなものではなく、どちらか一方の宝を選ぶ「あれか、これか」という選択なのです。これは大変厳しい言葉のように思われます。
 ところが、このたとえの中で、農夫も商人も「喜んで、持ち物をすっかり捨てて」いるのです。決して勇気を奮って、苦渋に満ちた大きな決断をしてということではないのです。それほど宝が素晴らしかったということでしょう。
 この農夫は毎日額に汗して畑を耕して生計をたてていたのでしょう。しかも、宝が畑に隠されていることを知らなかったのですから、小作人であったでしょう。日雇い農夫のようなものです。希望と喜びに満ちた生活でなく、辛い毎日を送っていたと想像することが出来ます。ところが、思いがけず宝に出会ったのです。その驚きと喜びは想像できます。
 この出来事は、私たちにイエスさまの招きを思い起こさせます。毎日人々の軽蔑の眼差しにさらされ、涙をこらえて生きていた徴税人や罪の女、地を這うような生活をしていた罪人と呼ばれる人々、イエスさまはこのような人々を御許に招いて下さったのです。食卓を共にして下さったのです。彼らにとって、イエスさまの招きは全く思いがけないものであったのです。ですから、大喜びで、すべてを捨ててイエスさまに従ったのです。
 この農夫もこの思いがけない神さまの招きを知ったのです。天の国は、「この私にも神さまの招きはあるのだ!」という恵みの発見だとイエスさまはおっしゃるのです。だからこそ農夫は「喜びながら」すべてを売り払ってイエスさまに従ったのです。
 商人はどうでしょうか。彼は農夫とは違います。価値あるものをもっていました。それでも、高価な真珠を見出した時、それは思いがけない「高価な宝」であったのです。本当に高価なものを見出したと言えましょう。それを発見したとき、商人としての損得を忘れ、すべてを売り払ってでも、この真珠を買ったのです。
 彼は、この世にこんなに美しい真珠が存在することは想像もしていませんでした。今自分が持っている真珠が無価値に見えるほどのものだったのです。その意味で、この商人にとっても天の国は思いがけない宝の発見であったのです。その意味で、この商人にとっても天の国は思いがけない宝の発見であったのです。
 ここで私たちは、パウロやルターを思い浮かべます。ルターの父親は刻苦勉励の結果、財産と名声を得ました。そのおかげでルターは大学まで教育を受け、当時としては、最高のエリートでした。しかし、キリストの福音に出会ったとき、すべてを捨てて福音に従いました。
 パウロはフィリピ書で、自分がどんなに価値あるものを持っていたかを羅列します。家柄、教養、人格すべて非の打ちどころがなかったとまで語っています。ところが、「主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、一切を塵あくたと見なしている」(フィリピ3章7節以下)と語っているのです。

 ここで立ち止まって、「思いがけない」という言葉にこだわってみたいと思います。「思いがけない」ということは、「合理的でない」あるいは「筋が通らない」ということを含みます。
 ファリサイ派の人々、律法学者がイエスさまに我慢できなかったのは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」として徴税人、罪人を赦し、罪人と共に食卓を囲まれたという点にあったのです。
 彼らは、イエスさまが「信心深い人々のために命を捨てて下さった」というなら理解できます。しかし、「不信心な者のために死んで下さった」(ローマ5:6)ということはどうしても理解できないし、納得も出来ず、ただ怒りに燃えたのです。
 言い換えれば、私たちが神さまの招きに与っている、神さまに愛されているということは筋が通らない出来事なのです。私たちの誰が「私は、神さまに愛されるに相応しい」と言えるでしょうか。私たちは思いと言葉と行いによって日々罪を犯しています。そうしたいからではありません。善を行おうとしながら悪を行ってしまうのです。怒り、憎しみ、そねみの心を捨て去ることは出来ません。この罪人である、私のためにイエスさまが死んで下さったのです。これこそが「思いがけない宝」であり、人生を変える喜びです、しかし、逆にファリサイ派の人々から見れば「筋が通らない愛」であり、不正に見える愛なのです。
 ところが、いつの間にか私たちはイエスさまの十字架の赦しを「思いがけない出来事」としてではなく「当たり前」のことのように考えてはいないでしょうか。「神は愛なり」と涼しい顔をして語ってはいないでしょうか。
 ルターは、「神さまからあまりにも多くの多様な恵みを受けているので、それらに目を眩まされて、一番大きな恵みを見失っている」と警告の言葉を語りました。
 悪い種、悪い魚、毒麦が初めからあるのではありません。私たちは、神さまの忍耐に甘えて、一番大切な宝を見失い、悪い魚になってしまっているのです。
 私たちはファリサイ人から見るならば理不尽な、怒りを覚えるほどの法外な恵みをイエスさまから受け取っているのです。この宝を改めて見つめ直し、この贈り物を心から喜びましょう。そして、終わりの日にイエスさまと共に天の宴会に連なる喜びを希望として生きて行きましょう。ルターは、「キリスト者とは、事実においては罪人だが、希望において義人である」と語りました。そうです。私たちは罪人です。しかし、「キリストの十字架によって罪を赦された罪人」「招かれた罪人」なのです。このイエス・キリストは決して私たちを見放すことはありません。「一人でも滅びないように」忍耐して、法外な、思いがけない愛を注ぎ続けて下さっているのです。
 今日の第二の日課を開いてください。ここには感極まった、心から激しく突き上げて来る喜びの賛歌が鳴り響いています。
 何ものも、私たちをこの「キリスト・イエスにおける神の愛から離れさせることは出来ない。」とパウロと共に心からの喜びの賛歌を歌いましょう。
 今日も、イエスさまは私たちのために祈り、私たちを思いがけない、法外な宝へと招いてくださっているのです。
 

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2008/08/17(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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