津田沼教会 牧師のメッセージ
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「キリストにおける平和」(ヨハネ15:9~12)
ヨハネ15:9-12、2008・08・03、平和の主日(典礼色―赤―聖餐式あり)
ミカ書4:1-5、エフェ2:13-18

ヨハネによる福音書15:9~12
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

ミカ書4:1~5
終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
もろもろの民は大河のようにそこに向かい
多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。

人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。
どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
我々は、とこしえに
我らの神、主の御名によって歩む。

エフェソの信徒への手紙2:13~18
 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。




説教「キリストにおける平和」(ヨハネ15:9~12)
 
今から、63年前の8月15日に日本は敗戦を認め、第二次世界大戦は終わりました。しかし、未だに人類はイラク戦争やパレスチナ紛争に見られるように、戦争をやめてはいません。私たちは、特に日本社会ではこの時期、平和について、また、戦争の罪責について毎年、新聞等で盛んに取り上げられます。そんな中で、本日は聖書のみ言葉を通して、改めて平和の大切さを覚える主日としたいと思います。本日の旧約聖書、使徒書、そして、福音の個所は、それぞれ、平和の主日にふさわしい個所が与えられています。
 まず、第一の朗読でありましたミカ書4:1-5について、ご一緒に考えてみたいと思います。終わりの日々に、世界の諸国民、その当時、イスラエルを圧迫していた多くの国民が、遂にはシオンの丘に向かってやって来る、大河の流れのように、彼らは流れ来る、そして周りの高い丘どもは低くされるというのであります。
預言者たちも、祭司たちも、そのなすべき働きをしていない、荒れ果てたエルサレムが現実であったときに、本日のミカ書の記事は、終末の時には、すべての国々が、主なる神の教えを聞き、主の道を知るために、やって来るというのであります。そして、彼らは、剣を打ち直して、鋤とし、槍を打ち直して鎌にし、もはや、国は国に対して剣を上げず、戦いについて学ぶことをしないときが終わりの日には来ると約束しているのであります。そして、農民たちは、ぶどうの木の下やイチジクの木の下に座して平和に暮らす時が来るというのであります。
そして、国々の民は、おのおのその神の名において歩むが、私たちは、旧約聖書で一貫して出て来る万軍の主なる神の名において、永遠に歩むであろうと約束されているのであります。
 次に第二の本日の朗読個所、エフェソ2:13-18においては、キリストによってもたらされた平和が語られています。敵意という隔ての中垣を、主イエスは、十字架とその血において取り壊された。もはや、ユダヤ人も異邦人も関係なく、神と人との関係や、人と人との関係において、既に和解と一致が主イエス御自身の死を通してもたらされたというのであります。そして、ユダヤ人と異邦人を分けていた律法も、廃棄されたというのであります。
 ヘブライ語では、平和はシャロームといい、ギリシャ語ではエイレーネといいますが、聖書でのそれらの意味はただ、戦争のない時期といったものではなく、神のみがもたらすことのできる完全な状態あるいは、繁栄とか調和、秩序を意味しています。私たちは、主イエス御自身によって敵意という壁の障害物を既に取り払われているのであります。
 そして、最後に本日与えられている福音は、ヨハネ15:9-12であります。主イエスが御自身を指して、「私はまことのぶどうの木である」と譬えられたその中の一節であります。父が私を愛してくださったように、私はあなた方を愛した。あなた方は、私を愛するなら、私の命令にとどまるであろう。そして私の命令とは、あなた方がお互いに愛し合うことであるというのであります。
 私たちが、主イエスが、私たちを愛してくださったように、愛し合うならば、憎しみやそれから帰結する戦争もなくなるはずであります。しかし、現実には私たち人類は、主イエス亡き後も、なお2000年に渡って、戦争を続けて来ました。
さて、第二次世界大戦の中で、殉教者となったある韓国の牧師がいます。それは、朱基徹(チュ・キチョル)という名前の人であります。彼は、戦争中日本が韓国人にも強制した神社参拝に服しませんでした。そして、確かまだ50歳前に、最後の牧会をした平城教会のときに、日本人の刑務所に度々連行され、遂に終戦を待たずして殉教の死を遂げたのであります。彼は「造り主である主なる神のみを拝まねばならない」との十戒の教えを全うして殉教者となったのであります。彼は元来温厚な人柄で、みことばの説教に力を入れ、どこの赴任した教会も100人ほども集まるように成長させた牧師でありましたが、最期まで牧師夫人の支え・励ましや教会員の祈り、そして何よりも聖書に支えられて正しい信仰を守り抜くことができたのであります。
 私たちは、そのような先人の信仰を是非受け継いで、世界平和のためにも祈り、信仰に挺身して歩みたいものであります。ミカ書が預言したような世界平和が実現するときまで「キリストにおける平和」を追い求めていきましょう。アーメン。
 





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2008/08/03(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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