津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主の祝福に包まれて」(マタイ28:16~20)内海望牧師
2005・05・22、三位一体主日(白)マタイ福音書28:16~20
イザヤ書6:1―8、コリントの信徒への手紙二 13:11-13

マタイによる福音書28章16節~20節
 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地のすべての権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

説教「主の祝福に包まれて」(マタイ28:16~20)内海望牧師

 マタイ、マルコ、ルカ福音書では終わり方が少しずつ違います。これは当然です。神さまの前では全く小さな存在でしかない人間が、神さまのひとり子であるイエスさまの生涯、そのメッセージを伝えようとするのですからイエスさまの全体を理解するなど不可能です。私たち人間は自分が知り得ただけしか、福音の一部しか知ることが出来ないのです。私たちの知ることの出来る福音はほんの一部です。しかし、それでも、それは私たちを生かして余りあるのです。その他すべてはイエスさまのみ心にお任せするのです。これが神信頼であり、信仰なのです。[ソロモンの祈り]。
 今日与えられたマタイは「派遣命令」で終わっています。ルカは、イエスさまが弟子たちを前にして「手をあげて祝福され、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」と昇天の記事で終わっています(24章50.51節)。マルコも同じような文章です。どちらも人間の理解することの出来たイエスさまの姿です。
 しかし、マタイの記事とルカの記事を重ね合わせて、心に思い浮かべると、本当に美しい光景が浮かび上がってきます。何度読んでも感動するところです。
 「派遣命令」、すべて命令形というのは、人間を束縛するものです。「これを守りなさい」という言葉を聞くとき、「もし、守らなかったら報い(罰)が与えられる」のです。今日のイエスさまの派遣命令も「命令だけ」を取り出せばそうでしょう。守ることが良いクリスチャンとしてのしるしとなるのです。緊張させられます。
 しかし、ルカの「祝福しながら、天に上げられた」という記事と重ね合わせると、この命令形が、私たちの心をわきたたせる、自由な、躍動感溢れる文章に変わって行くことに気づかされます。復活のイエスさまの祝福の暖かさに包まれた命令形なのです。
 実は、17―18節にその暖かさがよく表れています。「しかし、疑う者もいた。イエスは近寄って来て言われた」という文章を考えて下さい。「天の父のみ許に行かれる前に」、立ち止まり、「疑う者」の所にわざわざ近づいて話し掛けられるイエスさまに、私たちは「救い主の姿を見るのです。ローマ5:5-8に「神の愛が私たちの心に注がれているからです。実に、キリストは、私たちがまだ弱かったころ定められた時に、不信心な者のために死んで下さった。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」という驚くべき言葉があります。
 あまりにも大胆な言葉なので、私たちは、ついうっかりと「キリストは信心深い者のために死んで下さった」と読んでしまうのです。それが人間の理屈に合っているからです。しかし、イエスさまはわざわざ立ち止まって、「疑う者」に近寄り、「君に命じるのだ。私は君を信頼している」と声をかけて下さるのです。これは不信心な罪人である弟子たちに対する「祝福に包まれた命令形」なのです。疑う者、罪人を救うためにイエスさまは十字架に死んで下さったのです。そしてこのことを知らされた時、弟子たちはどうしてじっとしておれましょうか。この愛に包まれた時、彼らは心からの喜びをもってこの命令に従ったことでしょう。「信仰とは真に生き生きとした活動的なものであって、絶えず善いことをせざるを得ないものである」とルターは語りましたが、それは、まさにこの弟子たちの姿を語っているのです。

 ここで注意したいのは、もし、私たちが「キリストは信心深い者のために死んで下さった」と聖書を誤解している時は、この祝福に与れないということです。私たちは、どうしてもファリサイ人になってしまいます。言い訳をして自分を正当化したり、傲慢にも自分を高くし、他人を見下げたりして生きているのです。このように生きている限り、イエスさまの福音を正しく聞くことは出来ません。
 今日の初めの朗読におけるイザヤのように、正直に自分の心の奥底を見つめ、「災いだ。わたしは滅ぼされる」神さまの前に砕けた、悔いた心を持ってひれ伏した者にこそイエスさまの愛が生きて働くのです。罪人を救うために十字架に死んで下さったイエスさまの愛に生きる喜びを得るのです。復活の命を与えられた喜びに与ることが出来るのです。その時、私たちはイザヤと共に「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と生き生きとした喜びをもって返事できるのです。
 イエスさまは、弱い罪人である私たちのところにまで近寄って「私は君を当てにしているのだ。私は罪に死んだ君に新しい命を与える。私と共に福音を伝えよう」とおっしゃって下さるのです。何と素晴らしいことでしょうか。
 しかそ、この十字架の主、復活の主は「私はいつもあなたがたと共にいる」と約束して下さっているのです。「私」はいい加減であり、自分のことで頭がいっぱいになり、神さまのことを忘れてしまうことがしばしばあります。しかし、イエスさまは決して約束を破ることなく、「いつも」私と共にいて下さるのです。
 罪人を愛し、そのために命を捨てて下さったイエスさまが聖霊を通して、いつも共に歩んで下さるのです。このことを信じてイエスさまの派遣命令に従ってこの世を歩きましょう。
 神さまの罪人を愛する愛がイエスさまの十字架と復活を通して私たちに与えられ、聖霊によって日々働きかけてくださる、これは「三位一体」の意味なのです。
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2005/05/22(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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