津田沼教会 牧師のメッセージ
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「わが魂は主をあがめる」(ルカ1:46-55)
2004・12・19、待降節第4主日
サムエル記上2:1-10、ローマの信徒への手紙2:17-29、ルカ1:46-55

本日の福音 ルカ福音書1章46節~55節
 そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
 目を留めてくださったからです。 
今から後、いつの世の人も
 わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、
 わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
 その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

説教「わたしの魂は主をあがめる」(ルカ1:46-55)
 本日は、クリスマス主日であります。クリスマスおめでとうございます。さて、しかしまた、本日は、待降節第4主日でもあります。正式のクリスマスは、12月24日のクリスマスイブ礼拝の時から、新年の顕現日の前の日まで、すなわち、今回は来年の1月5日までとなりますが、私たちは年末のあわただしさも考えて、少し早く、本日12月19日に、クリスマスのお祝いを兼ねて、守っているのであります。
 そして、本日与えられている待降節第4主日の福音書のカ所は、ルカ福音書1章46節から55節までの、いわゆるマグニィフィカート、あるいはマリアの賛歌と呼ばれている部分であります。これは、ラテン語の聖書でこのマリアの発した言葉が、「マグニィフィカート」という言葉で始まっているので、そのように呼ばれてきたのであります。それは、もともとは「拡大する」というような意味ですが、そこから、主なる神を「あがめる」というふうな意味になったものであります。
 本日のこの部分は、「そこで、マリアは言った」という出だしから、始まっています。その文は、ユダの山里に、マリアがエリサベトを訪ね、それに対して、エリサベトがマリアの信仰、そして、主のなさったことを高らかにほめたたえるという出来事に続いてつながっている文であります。そういうこともあって、これは、ある写本によると、またのちの教父の中でも、ある者たちは、エリサベトが、言った言葉ではないかとも考えられて、「そして、エリサベトは言った」としているものもあります。
 しかし、本日の語られている言葉の内容は、「私は主のはしためです。お言葉のとおり、私の身になりますように」と天使に語ったマリアにしてはじめて告白し、証言することのできる内容であります。その内容は、旧約聖書の詩編や本日の第一の朗読のサムエル記上2:1-10を始めとするいろいろなカ所から取られ、言わば寄せ集められて出来上がってはいますが、落ち着いた、むしろ静かなマリアにこそ帰せられる信仰の表明であります。また、このカ所は、もちろん、主イエスご降誕の前の、母となるマリアが表明したものでありますが、それは、私たちが、ただ単にクリスマスを待ち備えるために、本日選ばれているというわけではなくて、それから2000年以上も隔てた現在においても、救い主・主イエスが終わりの日に再びおいでになられる方として、その時の出来事を、これから私たちが未来に向けて備えるのにふさわしいカ所として、アドベントの第4主日の本日与えられているのであります。
 私は、救い主が自分の子として生まれることを知らされたナザレの田舎娘の、そして、大工ヨセフのいいなずけであったおとめのマリアが、従姉にもあたるユダの山里に住むエリサベトのもとを訪問し、エリサベトの歓喜と祝福に答えて、本日のマリアの抒情詩、すなわち本日のこのマグニフィカートの言葉のとおりに、一言一句その場で即座にこの通りに語ったかどうかは、わかりません。けれども、マリアの信仰とひたむきな思いがここに、このような美しい文章としてまとめあげられているという事実は疑いようがないと思うのであります。
 わずか10節の短い言葉でありますが、内容は、最初から数節ごとに4つの文章に分けられます。
 まず、最初は、1章の46節から48節であります。「わたしの魂は主をあがめます、私の霊は、救い主である神を喜びたたえます。なぜならば、主のはしための低い状態にむかって、主はかえりみてくださったからであり、なぜならば、見よ、今から後、すべての世代は、わたしを祝福された者と呼ぶでしょうから」というのであります。まず、マリアは、主がわが身になさろうとしている偉大なことを、今は恐れと低い心でもって全身で、全人格において受け止め、信じ、それのみならず、小躍りして救い主である神を喜ぶというのであります。それが、マリアが「わたしは主をあがめ、救い主である神を喜ぶ」という理由であります。マリアは、何か自分の功績や行いによって主をあがめるのではありません。とるにたりない自分をも用いて、救いをなそうとしておられる神のゆえに自分自身は喜びおどるというのであります。
 次の文章は、49節と50節であります。「なぜならば、力あるお方が大きなことを、私になさったからです。その名は、聖であり、その慈しみは、時代からまた時代へと、主を畏れるものたちに及びます」。これは、神の本質は、力ある方、聖なる方、慈悲深い方であるということを言っています。
 続いて、51節から53節であります。「主はみ腕において、力あるふるまいをなさった。また、主は、その心の傾向の思い上がった者たちを追い散らされた。彼は王座から支配者たち・主権者たちを引き降ろし、低い者たちを、高く上げられた。空腹な者たちを、良いもので満たし、富んでいる者たちを、空しい手で、追い払われた」というのであります。
 マリアは、自分が用いられて、救い主の母とされる経験を、イスラエルが見出され、用いられたあの旧約聖書の出エジプトの体験に重ねて、神、力ある方がどういう方であるのかを述べます。神の必要を感じない傲慢な者を、主はみ腕でもって追い散らされるというのであります。
そして、自慢する者と謙遜な者、支配者たちと卑しく低い者、富める者と貧しい者を主はやがて、逆転なさるというのであります。これらの言葉は、もとの文では、過去形で書かれていますが、それは、未来においてそうなるということを先取りして言っており、メシアが来られる時、もう始まりつつある新時代にそうなるという信仰を表明しているのであります。
 そして、最後の4番目が54節と55節であります。「彼、すなわち力ある方は、しもべイスラエルをお助けになった、そして、憐れみを思い出された。それはちょうど、主が私たちの父祖たちに向かって語られたとおり、アブラハムに対して、またその子孫に対して、とこしえにそうである」とマリアは、自分に示された出来事から信仰を告白しているのであります。マリアが選ばれたこと、そして、それは、アブラハムとその子孫に対して、あるいはしもべダビデとその末に対して、約束されていた慈しみであり、また、当時も圧迫されていた主のしもべ、イスラエルの民に対して約束されていたものでありました。神がなさったこと、また、なさることは、決して単なる気まぐれや偶然ではなくて、永遠の昔から、永遠の未来にまで、神がご計画になっている事であります。そして、本日のマリアが信仰を表明した、今から2000年以上も前のこの言葉、歌は、2000年を隔てた現在の私たち、教会に集う者たちが同じように主が来られるのを待つのにふさわしい歌でもあります。聖書によって約束されている主が再び来られるという信仰を、私たちもまた、マリアの本日の厳粛な信仰の告白を通して、受け継いでいくようにと招かれているのであります。現在、時は、クリスマスを目前にひかえています。本日は、主の再来の信仰を確認するアドベントの時でありますが、来たる12月24日のイブ礼拝からは、2000年も前に現実に私たちの罪のために十字架につくためにお生まれになった主イエス・キリストの出来事を正式に祝うクリスマスに入ります。少し早くはありますが、クリスマスに生まれる主をも、本日マリアの歌に重ねあわせて喜び迎えたいと思います。一言祈ります。
天の父なる神さま。アドベントのローソクにも4本とも火がともされ、本日はクリスマスの祝いをも兼ねた礼拝を共にしています。私たちのために主は命を捨てるためにおいでくださり、それによって私たちはあなたの愛を知りました。そしてあなたの救いの約束は今もなお厳として続いています。どうぞこの一年も、マリアと共にあなたを全身全霊であがめまつる日々とならせてください。キリストによって祈ります。アーメン。
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2004/12/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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