津田沼教会 牧師のメッセージ
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「確かな報い」(マタイ10:34~42)
マタイ10:34-42、2008・07・20、聖霊降臨後第10主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書28:5-9、ローマの信徒への手紙6:15-23

マタイによる福音書10:34~42
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」


説教「確かな報い」(マタイ10:34~42)
 
本日の福音、マタイ10:34-42は、10:34-39と10:40-42とに、新共同訳聖書と共に、大きく二つに分けられます。前段は、艱難と家族の分裂というテーマであり、後段は、宣教者を受け入れることに関する事柄であります。本日の部分も、先々週からの12使徒の派遣に関しての文章の続きでありますが、先週までの部分が、どちらかと言えば、むしろ、宣教する者、牧師や宣教師などを念頭において考えられていたのに対して、本日の部分は、すべてのキリストに従う者、弟子、信者一般に関わる問題であります。
 主は、まず、次のように言われるのであります。あなた方は考えないように、すなわち、私が来たのは、平和を地上に投ずるためであると、そうではなく、かえって、剣を投ずるためである。なぜならば、人を彼の父に向かって背かせ、娘をその母に向かって、また、嫁をその姑に向かって背かせるために私は来たからであると。そして人の敵どもは、その家の者であると言われるのであります。これは、ミカ書の7章6節に出ている言葉でありますが、主は、ご自分が来たことによって、この言葉が実現すると的確にも言われるのであります。そして、私を超えて、父や母を愛する者は、私にふさわしくない、また、私に勝って息子や娘を愛する者も私にふさわしくない。また、自分の十字架を負って、私の後について来ない者は、私にふさわしくない。自分の命を得ようとする者はそれを失い、しかし、私のために、その命を失った者は、それを見出すであろうと言われるのであります。
 今から、私たちは、暑い夏を迎えます。そして、お盆の前後に、自分の両親に、あるいは、息子、娘に、あるいは、孫に、兄弟に会う機会が増えるでありましょう。私も、特に少しからだの弱っている父を見舞いに、一家で帰省する予定でいますが、こんなことがありました。ドイツに旅行に出る前に、父が体を非常に弱らせ、なかなか、電話も通じない、何とか近くにいる妹たちに連絡をして、父が検査入院をしたことを知って、不安なままに、ドイツ旅行に出かけたのであります。もどって、父が何とか大丈夫であることを知って、安心し、その後、時差ぼけなどもあって、しばらくそのままにしていたのであります。すると、母から電話がかかってきて、何事か、安否を訊ねる電話もしないで放っておくとは、私の妹も、私の信じているキリスト教とは一体どんな宗教なのかと言っているとすごい剣幕で怒られたのであります。
 主が、本日言われていることは、決して、親孝行をしないでいいとか、家族のことは二の次でいいと言われているのではありません。私のあげた自分の例は適当なものではないでしょう。しかし、主イエスの言葉は、実際言われているとおりなのであります。私たちが、家族に愛着を持つのは、自然なことであり、大切なことであります。けれども、主イエスとの関係を破ってまで、肉親の愛情の絆を優先することは、キリストを信じる者としてふさわしくないのであります。私たちは、家族と親しい交わりをこの夏もなさる方が多いでしょう。しかし、その場合に、本日の主イエスの言葉を思い起こしたいものであります。そして、私たちは、主イエスに従いながら、蛇のように賢く、また、鳩のように純粋で混じりけのない者でありたい。
 さて、後段では、主は、こう言われます。あなた方を受け入れる者は、私を受け入れるのであり、私を受け入れる者は、私を遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者の名へと受け入れる者は、預言者の報いを受けるであろうし、正しい者を正しい者の名へと受け入れる者は、正しい者の報いを受けるであろう。そして、これらの小さい者の一人に弟子の名へと冷たいものの一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、彼の報いを失うことはないであろう、と。
 これらの小さい者とは、キリストの弟子たち、私たちすべてのことであります。私たち小さい信者を、受け入れる者、すなわち、冷たいものの一杯を飲ませてくれたり、あるいは、私たちの言う言葉を受け入れる者も、その報いを失うことはないであろうと、主は約束してくださっています。
 ですから、私たちは、自分でできる限りの主イエスの証しをすればよいのであります。また、宣教者、牧師や宣教師や伝道師につめたい水一杯でも飲ませて、もてなし、支える者がいるならば、その者もまた、それによっても、預言者、正しいことを教える教師、あるいは、いと小さき者、その人と同じ報いに与ることが主によって約束されているのであります。信者の人の中にも教会にこれない人もおられます。しかし、私たちをもてなし、私たちの証しする主のお言葉を受け入れる人もまた、確かな報いに与ると主は約束してくださっています。
 私たち、信者、すべての信者は、それぞれ、自分の十字架を負い、主に従って歩みつつ、悩み、苦しみを体験しなければなりませんが、主イエスが主のお言葉を語る者、聞く者、すべての信者に、確かな報いを約束してくださっています。私たちはそれに慰めと励ましを与えられて、この夏も主イエスを自分なりに証しする時としたいものであります。そしてそのときにこそ、この世の他のものでは得られない、真の喜びが与えられるのであります。アーメン。

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2008/07/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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