津田沼教会 牧師のメッセージ
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「十二使徒の派遣」(マタイ9:35~10:15)
マタイ9:35-10:15、2008・07・06、聖霊降臨後第8主日(典礼色―緑―聖餐式あり)
出エジプト記19:1-8a、ローマの信徒への手紙5:12-15

マタイによる福音書9:35~10:15
 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返って来る。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」



説教「十二使徒の派遣」(マタイ9:35~10:15)

 本日は、十二使徒の派遣についてのみ言葉です。主が、十二使徒を選び、み国の福音を告げ広めようと、決心なさったのは、人々が、飼い主のいない羊どものように、悩まされ、倒れ伏しているのをご覧になり、腸を痛める思いで一杯になったからであります。み国の福音とは、何でありましょうか。それは、神が私たちの生活を支配し、統治してくださるあり方であります。2000年前の主イエスの時代も、また、現代は更に一層、神を信じることが希薄になっている時代であります。日本の現在を考えてみましても、いろいろな不正がはびこっている。しかし、そのような罪の世界に、主イエスはお出でになり、また、お一人でそれを救おうとされるのではなくて、弟子たちを選び、この世界の中へ、ご自分と同じ権能を持たせてお遣わしになるのであります。悪霊を追い出し、病人を癒し、死人をも生き返らせる、ご自分がなされるのと同じ力を弟子たちにも働かされるのであります。
 その12使徒の中には、徴税人マタイも、主を裏切ることになるイスカリオテのユダも含まれています。12人の頭と目されているのは、シモン・ペトロでありますが、12人は、一人一人のなした奇跡やはなばなしい働きについては、聖書は事細かには記していません。
 ですが、彼らは、主によって主と同じ権能を付与され、特に、マタイの教会では、イスラエルの失われた羊どものもとへ、まずは、み国の福音を告げ広めるようにと、送られるのであります。マタイは、極端とも思えるような、宣教のあり方を主イエスの口を通して勧めています。財布には、金、銀、銅貨もいれず、杖も持たず、二枚の下着も持たず、履物も持たずに出て行くようにと、主イエスは指図しています。
 そのような極端なあり方は、何を意味しているのでありましょうか。それは、ただ、主イエスのみ言葉にのみ、全面的な信頼を寄せることが重視されねばならないことを示しています。
 神学生のとき、ある信徒代表が、牧師となっていく人たちに、これからは、聖書だけを頼りに、宣教に勤しんでくださいと励ましのメッセージを、簡単に表明されているのを、私は目撃しました。また、ある教師試験の信徒の委員は、毎週、一つだけでよいから福音を見出して、説教壇に上るようにしてくださいと勧めの言葉をくださいました。
 説教をするのには、聖書の原典や、すぐれた注解書をいくつか読むことも必要であります。けれども、行き着くところは、聖書の言葉であり、主イエスのみ言葉にのみ、全信頼を寄せるということであります。
 そして、粘り強く、ある町のある人を注意深く捜してその家にとどまり、平和の祝福を祈り、より条件の良い人や待遇のよい家を次から次へと探し回るなと、主は戒めておられます。そして、次週のみ言葉ですが、鳩のように素直に、蛇のように賢くありなさいと、主は、十二使徒たちに戒めて、送り出されたのであります。これは何も牧師だけに限られた戒め、勧めではありません。私たち、キリストに先に召された者が、当然、取るべき態度、姿勢であります。私たちのとどまった家の人がふさわしければ、あなた方の祈った平和の祝福はその人の上にとどまるだろう。もしふさわしくなければ、その平和はあなた方に返って来る。その場合には、あなた方は、その家、その町を出るとき、足の塵を振り払いなさい。あなた方はなすべきことを十分に果たしたのだから、次の場所へ、後ろを振り向かないで進みなさいと言われます。私たちも、そのように、賢く、忍耐強く、周囲の人々への主イエスの証しを希望と勇気をもって実行していきたいものであります。アーメン。

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2008/07/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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