津田沼教会 牧師のメッセージ
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「魂といのちの主」(マタイ10:16~33)
マタイ10:16-33、2008・07・13、聖霊降臨後第9主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書20:7-13、ローマの信徒への手紙6:1-11

マタイによる福音書10:16~33
 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。
 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼベルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」




説教「魂といのちの主」石居基夫牧師(日本ルーテル神学校)
 
今日の聖書の個所は、イエス様が12人の弟子を遣わされる、そのときのみ言葉を記しています。12人の使徒と呼ばれた弟子たちは、実際にこのときにイエス様のこのみ言葉によって弟子としての働きを担って、それぞれの場所に遣わされて行ったでありましょうし、また、おそらく、後にイエス様に従う生涯を生きていく長い歩みの中で繰り返し、このイエス様のみ言葉を思い起こし、立たされてきたのではないかと思うのです。この福音書を記したマタイもまた、この同じイエス様のみ言葉によって、生かされてきたのではないか。そのように思われる。そしてまた、私たち自身も、この主のみ言葉によって、生かされていく。そのように言うことができましょう。
 しかし、このみ言葉は、イエス様に従う者、その生涯の歩みに対して、幸せに満ち溢れたような約束が語られているかというと、そうではなく、むしろ従いゆく者に当然のように待ち構えている艱難、その厳しさということを語っている。これはいったいどういうことなのでしょうか。「あなた方を遣わすこと、それはオオカミの群れの中に羊を送り込むようなものだ。」イエス様はそのように言われているのです。いのちの危険が迫ってくるようなそういう状況が、あなた方を待ち構えているだろう。と言われているわけですから、驚くようなみ言葉です。
 もちろん、私たちは、この後に、イエス様ご自身も十字架に架けられることを知っていますし、また、この弟子たち、そしてこれに続く時代にイエス様に従う歩みを生きた最初のキリスト者たちがどれほど、ユダヤ教から、また、ローマの帝国から迫害を受けたかと言うことを知っていますから、なるほど、そうした迫害を予測し、その宗教的政治的な状況の中にあっても信仰を堅く保つべき教えを語られたのだと、わかるのです。地方法院に引き渡される。それは、ユダヤ教の現実の中でやがてはイエス様をキリスト・救い主として信じることが、危険な思想、唯一のユダヤ教の神様への冒涜的な事柄だと言って捕えられ、その信仰を捨てるか、命を捨てるかと迫られることにもなる。そういう状況の中へと生きていく、生きていかざるを得ないキリスト者たちへの励ましと支えを語られているところだ、と言ってよいでしょう。主はどのような時にも、信じる者の魂を見捨てられるようなことはない。「体を滅ぼしても魂を滅ぼす力のない者を恐れるな」というみ言葉は、命に勝る価値あるものについて教えるのです。そして、そうした神様とのつながりの中で生きる力を弟子たちに教え、私たちに伝えるもの、と言っていいでしょう。
 では、もしそういう厳しさを語っているのだとしたら、私たちにとって、つまり、そうした迫害がもはや過ぎ去った時を生きる私たちにとっては、これはあまり意味のない言葉だということになるでしょうか。もちろん、今の日本はキリシタンの時代ではないので、キリスト者になって迫害を受けるというようなことは一応はないことになっている。まあ、迫害はありませんが、実際には結構面倒なこともあります。まだ、1パーセントの恨みということにもなるけれども、教会に行くというところくらいまでは良くても、洗礼を受けたいなどと表明しようものなら、それはやめなさいと言われないわけじゃあない。だから、そういう反対される状況があるので、こうした言葉は、そうした反対されたり、拒否されたりする信仰者の生き方をイエス様がお支えになるために語られているということであるなら、それは、まったくそのとおり。
 けれども、実は、このみ言葉は、そういう意味合いを持っているわけですけれど、もう少し考えてみると、実はもっともっとチャレンジングな意味を思わされる。
 つまり、イエス様に従って、遣わされ、生きていくということは、人・他者との間に摩擦を生み出さないではいないということです。このイエス様に従うということは、ことによると、他の人が正しいと思うこと、これが当然のことで当たり前、また、常識的で、社会的に人々から認められる生き方だとされるような生き方を歩むということにはならない、そういう生き方への招きの言葉だと言わなければなりません。
 なぜか。主に従う。それは、人がどう考えるか、あるいは社会の持っている価値観ではなくて、神様のみ言葉を大事にしていくという生き方であるからです。それは、ある意味で当然のように社会からの強い拒否の態度を受け止めなければならないということでもあり得ます。そのことは、私たちが少しく考えてみると、よくわかることです。

 糸賀一雄という人が戦後の混乱の中で、知的障害を持った子どもたちのために医療と教育を兼ねた入所施設の「近江学園」をつくりました。資金も計画も十分にない中で、彼は世に訴えて、資金も集め、自ら開拓をして、その学園を作ります。もちろん、私たちは、社会福祉の中での偉大な業績として、多くのことを学ぶのですけれども、当時多くの人たちは、こうした働きにどれだけの価値があるのかと否定的な反応も少なくなかったのは当然でした。社会全体が混沌としていた時代です。なかなか容易に事が進んだわけではなかったのです。糸賀は「この子らに世の光を」ではなく、「この子らを世の光に」と訴えて、福祉の働きの重要性を訴えます。憐れみをもらう存在なのではない、この子どもたちこそ世の光なのだから、輝かせなければならないと、訴えた。彼は、キリスト者でありました。
 彼の日記が残されて、今は全集に収録されています。その中で、彼がどうしてこの働きに出かけて行ったかということが書かれています。そこには、彼がキリストの愛に押し出されてそこに行ったのだとは書いていない。彼は、この働きを通して、イエス・キリストに会いに行くのだというように書いている。
 それは、まさに、その子どもたちがキリストを表してもいるということでもあるし、また、そこにイエス様ご自身がおられるという意味かとも思う。
 私たちがキリスト者として立派な自分となって、それから、福祉の働き、人を助ける働きをしていきましょうというのではない。キリストに従う。それは、そこにキリストがその人々のために愛をもって働いてくださるのだから、その手となり足となるように招かれるということであるということでしょう。
 主が私たちを愛してくださったように人を愛することへと、私たちは主の弟子とされました。イエス様は、いったい、今どこにおられるのか。あの罪人や病人のそばに行かれて、罪の赦しを宣べ伝え、癒し、神の国を表していかれたイエス様は、私たちに先立ち、どこにおられて、招かれているのか。弱い、小さくされた者のそばにあること。その道は決して社会の中で皆から支持されるような働きでは必ずしもない。むしろ、世の中の流れに逆らうものであるかもわからない。その招きを聞いていくということを私たちは求められているのだと思う。神の義を求め、神の平和をもたらすときに人はそれを容易には受け取れないのです。なぜか。それは皆自分が神様よりも人よりも大事だからです。だから、あのときにもペトロも他の弟子たちも主を見捨てて行ったのではありませんでしたか。主の道は、誰からも、つまり私たち自身にも受け入れがたいものであり続けるのです。

 イエス様に従っていくこと、それは、ただ私たちが主を信じる者として、他の人にあまり理解されないけれども、信じていきますというようなことにとどまらない。むしろ、イエス様によって捉えられ、生かされていく。そこに私たちはキリストの愛を伝えていく者とされているのです。
 この神様のみ業を妨げるもの。それは単に信仰的に反対するという力とは限りません。むしろ、この世界の中に神様のみ心がなされることを妨げるものとして、あらゆるところに私たちを捉えようとしているのです。そこには悲しみや嘆きがあり、あるいは、羨みや嫉妬がある。そうした力は、私たちを誘惑し、私たちを外から捉えようとしているのです。旧約聖書のアダムの堕罪の物語も、またそれに続くカインとアベルの物語も、いかに巧みにそうした悪魔的な力が私たちを捉えるものか。そして、また私たちのうちに神様のみ心から離れるような力がうごめくことをよく伝えているのです。
 私たちがそうした力によって、主から引き離されようとすることを、イエス様はよく知っていてくださいます。髪の毛の一本も数えられているのであれば、私たちが弱く、そうした私たちを神様から引き離す力の中で自分を失い、あらゆる関係から切り離されてしまうものであることをもよく知っておられるのです。だからこそ、今日の、この主の弟子としての招き、また、派遣の言葉によって、私たちが本当に主の愛のうちに捉えられた者であることをイエス様は伝えてくださっているのです。どんな敵対する力の中にあっても、「その時には、言うべき言葉は教えられる。」父の霊が私たちのうちに働いてくださるというのです。私たちが神様に愛され、神様から命をいただき、主キリストによってもう一度捉えられて、生きる者であることを私たちのうちに思い起こさせてくださる。そうして、私たちが何者であるのか証しさせられていくというのです。主によって愛され、赦され、生かされるのだ。そのことこそ、イエス様のものとして生かされる不思議であり、また、希望だと信じるのです。
 主が私たちの魂といのちを守り、生かしてくださるのです。そうであれば、この招きの声に聴き、愛をもって主に従う者となっていきたいのです。今、このときにイエス様の弟子として、愛された者としての恵みを心にしていきたいのです。そして、小さな愛のともし火を掲げていく者となっていきたいのです。

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2008/07/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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