津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「神さまを信頼して」(マタイ6:24~34)内海望牧師
マタイ6:24-34、2008・06・15、聖霊降臨後第5主日(典礼色―緑―)
イザヤ書49-13-18、コリントの信徒への手紙一4:1-13

マタイによる福音書6:24~34
 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
 
 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自ら思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」



説教「神さまを信頼して」(マタイ6:24~34)内海望牧師

福音書の日課を通して御言葉を聞きたいと思います。
 イエスさまは、『「何を食べようか何を飲もうか」あるいは「何を着ようか」ということで悩むな』とおっしゃるのです。それよりも「命」そのものに目を向けよとおっしゃるのです。これは「死を覚えよ」とも言うべき厳しいみ言葉ですが、反面、私たちを日常の思い煩いから解放するみ言葉でもあります。
 私たちは、日常生活のこまごました思い悩みで心がいっぱいになるときがあります。思い煩いの種は、一つ一つは小さいことであっても、絶え間なく次々に起こり、私たちの神経を苦しめます。その結果、私たちは疲れ果ててしまうのです。
 イエスさまは、このような思い煩いに振り回されている私たちに「空の鳥を見よ。」とおっしゃいます。神さまがお造りになった広々とした世界に目を向けよという意味です。
 「神さまを信じる者」は、顔をあげて「命の与え主」である方に心を向けることが出来るのです。その時、私たちは目の前の「思い煩い」から自由にされ、新鮮な空気を胸一杯に吸い込むような経験をします。心に新しい生命の息吹が注がれる喜びです。聖霊の息吹と言ってもよいでしょう。このような経験は信じる者の特権です。
 そこに何が見えて来るでしょうか。それは、「命の与え主」である神さまの一貫して変わらない「人間への愛」です。
 ここで、第一の日課に目を転じましょう。イザヤ49:13以下です(1143頁)。ここにはあふれる喜びの歌が奏でられています。「天よ、喜べ・・・」という言葉で始まる喜び溢れる歌声があたりを満たします。
 この個所は、14節にあるように、「もう神さまからも見捨てられた」と絶望していた捕囚の民に、その絶望に逆らって神さまの救いの御手が伸ばされていたことを経験した民の賛歌です。
 ここで、神さまは力強く約束をして下さいます。人間の愛の中では最も強い母親の愛でも、ときにはくず折れてしまうこともあろう、しかし、「わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。」とおっしゃって下さるのです(15、16節)。
 これは、何としても忘れずに、私たちの心にしっかりと刻み込んでおきたいみ言葉です。そして、この約束の言葉が、今日の福音書の日課であるイエスさまの「山上の説教」にこだましているのです。確かに、この神さまの愛は、この教会、私たちの群れに生きて働いているのです。
 この愛を信じていたからこそ、使徒パウロは最も苦しい試練の中で、「四方から苦しめられても生き詰まらず、途方に暮れても失望せず、打ち倒されても滅ぼされない。」と力強く語ることが出来たのです(コリント二4章8節以下)。
 「神さまの愛を信じる」ということは、このような強さが身に着くということではないでしょうか。
 さて、福音書に戻ります。
 私たちはしばしば人間の力では変えることの出来ない事柄に悩んでいます。マタイ6:27節でイエスさまは「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでものばすことができようか。」とおっしゃいます。確かにそうです。私たちは人生を手中にしてはいません。「命」は「私の所有物」ではありません。命の長さ(寿命)は、人間の努力では変えることは出来ない事実です。それでは絶望すべきでしょうか。そうではありません。私たちは、命の創造者であり、与え主である神さまの愛の約束を信じることが出来るのです。
 イエスさまは、「あなたがたは価値あるものではないか」とおっしゃいます。神さまは、創造された世界のすべてのものを「極めて良かった」とおっしゃったのです。人間が神さまの命令にそむき、罪の中に生きるようになっても、神さまは「良きもの」として人間を愛し続けて下さったのです。
 「神はその独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と書かれています。事実、イエスさまは私たちが永遠の命を」生きるように、その十字架の血によって私たちの罪を洗い清めて下さったのです。
 このように考えると、聖書の歴史は、神さまの信実(誠意)と人間の不信実とのせめぎあいの歴史なのです。そして、ついに神さまの誠実さが御子イエス・キリストの十字架の愛によって最終的に貫き通されたのです。そして、私たちが古い自己に死に、新しい私として復活する道筋を作って下さったのです。この神さまの御子の命をかけた誠実に信頼しましょう。
 こんなにまで愛し通してくださった神さまに対して、私たちはどうすべきでしょうか。心から感謝し、感謝のうちに悔い改めることこそ、復活の命に生きる道ではないでしょうか。「感謝のうちに悔い改める」のです。何故ならイエスさまは「悔い改めたら赦す」とはおっしゃっていないのです。私たちが罪に沈んで自分中心に生きているときに既にイエスさまは十字架に死んで下さったのです。「先手を打たれる神さま」の姿がここにあります。
 この愛によって生かされている者として、神さまの約束を信頼し、すべての思い煩いから解放され、喜びの日々を過ごそうではありませんか。その時、私たちの喜びは、愛となって隣人の間にも広がっていきます。

   
スポンサーサイト
2008/06/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。