FC2ブログ
津田沼教会 牧師のメッセージ
「あなたがたは地の塩、世の光である」(マタイ5:13~16)内海望牧師
マタイ5:13-16、2008・05・25、聖霊降臨後第2主日(典礼色―緑―)
イザや書58:1-10、コリントの信徒への手紙一2:1-5

マタイによる福音書5:13~36
 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に味気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」


説教「あなたがたは地の塩、世の光です」(マタイ5:13~16)内海望牧師
 今日の日課は驚くべき言葉で始まっています。ここでイエスさまは、「あなたがたは地の塩である。世の光である。」と断言していらっしゃるのです。私たちは、「地の塩になれ。世の光になれ。」と命じられていると読んではいないでしょうか。そうではないのです。「である」とはっきり断言されているのです。
 「あなた方は地の塩、世の光である。」と言われても、私たちは戸惑うばかりでしょう。私たちは決してそのように呼ばれるには相応しくないことを知っているからです。私たちは、「そうなりたい」と思っても、結局は自分のことばかり考える人間だからです。人前では何とかごまかせても、神さまの前で自らを正直に省みるならば、「地の塩」「世の光」どころか、「思いと、言葉と、行いによって、御前に罪を犯しました」と率直に懺悔する以外にない生活を送っているのです。
 そのような私たちであることをご存じなのに、どうして「あなたがたは地の塩である。世の光である」とイエスさまはおっしゃるのでしょうか。
 聖書には似たような言葉があります。エフェソ5:8には、パウロの言葉として「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい。」と語られています。ここでも「あなたがたは、光となっています。」とはっきり断言されているのです。
 このように断言される秘密は、「主に結ばれて」という言葉にあります。私たちは暗い罪の世界に生きていたが、主であるイエスさまに結び付けられることによって光の世界に生きるものとなったのだ、という意味です。
 実は、私たちは、ここにイエスさまの驚くべき愛の決意を読み取ることが出来るのです。
 イエスさまは、「君たちを罪の中に滅びるままにしては置かない!」「君たちを罪と死の中に置き去りにはしない!」という決意をもってこの世に来られたのです。(実は旧約時代から神さまは愛の心をもって人間を見て下さっています。「怒りの神」も「愛の神」なのです。「イスラエルよ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。エゼキエル18:31.32」。イエスさまはこの神さまの御心を行ってくださった方です。
 そして、罪と死の力に捕えられ、暗闇の中を生きてきた私たちを、ご自分の側にしっかりと引きつけてくださったのです。私たちが努力(修業)して、イエスさまに近づき、結び付いたということではありません。イエスさまが来られて、私を御元に引き寄せて下さったのです。
 イエスさまの十字架の苦しみと死は、神さまと悪魔との白兵戦である、と語った人がいます。その通りです。イエスさまは、十字架と死を通して、私たちの救いのために、「罪と死の力」と天下分け目の戦いを戦って下さったのです。そして復活の勝利を収め、私たちを悪魔の力から奪い返してくださったのです。このようにして「罪と死の囚われ人であった私たち」はイエスさまに結び付けられ、再び光の子として、光の下に生きる者とされたのです。
 ですから、「あなた方は地の塩、世の光である」というイエスさまの御言葉は勝利の宣言と言えないでしょうか。
 私たちは、このイエスさまの愛に対してただ感謝するのみです。
 ルターは、このイエスさまの十字架と苦しみと死という出来事について「キリスト・イエスが世の罪を担って死にたもうた。これを知って悪魔もまた震えおののくであろう。」と語っています。この出来事は、この世界を暗闇から光に変える出来事です。世界の状況を一変させるような出来事だったのです。悪魔が震えおののくような。
 したがって、この出来事を、人間の側から見れば、それは「私たちは喜びの余り震える」としか言えないような出来事であったのです。
 私たちは、「イエス・キリストの十字架の愛」という言葉に馴れ過ぎて、恐れおののくような感動を覚えず、気軽に使ってはいないでしょうか。私たちはいつの間にか、この「イエスさまの十字架の愛」を矮小化してしまっているのです。
 逆から言えば、私たちは「罪」を小さくしてしまっているのです。イエスさまの十字架の死がなくても解決できる簡単な事柄にしてしまったのです。しかし、実は私たちは「死すべき罪人」であったのです。それは、こすっても、洗っても落ちない汚れのようなものです。人間の努力ではどうすることもできないほど私たちは罪にそまっているのです。そのためにはどうしても神さまのひとり子の犠牲という高価な代償が必要であったのです。イエスさまがご自分の血によって洗い清めて下さったのです。これより高価な犠牲はありません。それほど私たちの罪は深く心を支配していたのです。
 しかし、このイエスさまの十字架の死によって、私たちは確かに罪と死の世界から救われました。
 このことを正しく理解した悪魔が、何よりも先ず自分の滅びを自覚して震えおののいたのです。私たちは喜びに震えるのです。
 日常生活を振り返ってみれば、私たちは未だに日々罪を犯す罪人です。ルターは「原罪は鬚のように日々新しく生まれて来る」と語りました。しかし、イエスさまにしっかりと結びつけられた「罪赦された罪人」なのです。決して罪の奴隷ではありません。「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせて下さる」と詩篇記者は歌いました。確かに、私たちは暗闇の世界から「光の世界」へと移されたのです。たとえ、私たちが罪を小さくし、イエスさまの愛を縮小するような者であっても、確かにイエスさまは私たちを御許に引き寄せ、赦しを与えられたのです。
 この大きな恵みを信じるとき、私たちはじっとしておられなくなります。器としての私はあくまでも罪人ですが、ここにイエスさまは並はずれて偉大な宝、十字架の愛を収めて下さったのです。私たちの輝きでなく、このイエス・キリストの恵みによって私たちは「地の塩」「世の光」なのです。このキリストの光を覆うのでなく山の上に置くことが大切なのです。
 ルターは、「信仰とは、神の恵みに対する、生きた大胆な信頼であり、そのために千度死んでもよいと思うような信頼である。・・・信仰とは真に生きた勤勉な活動的なものであって、絶え間なしに良いことをなさないではおられないものである(なさないことは不可能)」と語っています。
 自分の善行や罪にではなく、イエスさまの愛の大きさに目を留めましょう。そこから必ず私たちは隣人へ向かっての生き生きとした愛の心がおこってくることを経験するでしょう。「世の光」であり「地の塩」であるイエス・キリストを運ぶ器としての喜びが生まれてくるのです。


スポンサーサイト
2008/05/25(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)