津田沼教会 牧師のメッセージ
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「私は場所を用意しに行く」(ヨハネ14:1~14)
ヨハネ14:1-14、2008・04・20、復活後第4主日(典礼色―白―)
使徒言行録17:1-15、ペトロの手紙2:4-10

ヨハネによる福音書14:1~14
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示し下さい』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」



説教「私は場所を用意しに行く」(ヨハネ14:1~14)
 
私たちは、教会暦では、今しばらく復活節を祝います。しかし、先週の個所、そして、本日、さらに、来週の主日まで、主イエスのご復活そのものとは、異なる記事が、ヨハネ福音書を通して与えられています。先週は良い羊飼いのたとえであり、また、次週は本日の記事と同じくその続きの個所、すなわち告別説教といわれている中から福音が選ばれています。
しかし、これらは、主の復活と、あるいは、その前の主の十字架における死と深く関わっているのであります。今日の福音の個所は、ヨハネ14:1~14であり、告別説教の始まりに当たります。本日の記事に即して、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 主は、最後の晩餐の席で、本日の記事を語っているのであります。
「あなたがたは、心を騒がせるな」と、主は切り出されています。この後、弟子たちは、主が捕らえられ、羊飼いを失った羊どものような体験をするわけですから、この言葉が前もって弟子たちに発せられたのは、ごく当然なことでありました。しかし、この時の弟子たちに限らず、2000年近くを隔てた現在の私たちにも、同じように主は言われているのであります。
 私たちは、明日のことを思い煩う生活を繰り返しながら、今も生きています。1週間、1週間が、心を騒がしがちな、コップの中の水がかきまぜられるような、一喜一憂する生活を送っています。その点では、この告別の講話を聞いていた弟子たちと同じような体験を繰り返しているのであります。しかし、主は、十字架の死によって、弟子たちと引き離される前に、本日の慰めに満ちた、励まされる言葉を、約束をしてくれているのであります。すなわち主は、心を騒がせるなと警告した後、「神を信じ、また、私を信じなさい」と言われます。そして、「私の父の家には多くの住まいがある。私はそうでなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言っただろうか、私はそれを準備して再びあなた方のもとにやって来る」と言われるのであります。父なる神の家に、あなた方の場所を用意しに行くといわれました。このような言葉を言った人はこの歴史上他にいないでありましょう。この世界の罪の世界から霊が解き放たれて、天上の世界へと脱出するというようなことを言った者、すなわちグノーシス主義の人々は初代教会のころにも異端としていました。しかし、主は、地上に残される私たちのもとにまた戻って来て、この世界の中に私たちがいるままで、罪から私たちを守ってあげようと約束されるのであります。そして次に、「あなた方は私がどこに行くか、その道を知っている」と言われました。すると、あの主のご復活の時にも悲観的だったトマスは「、主よ、あなたがどこに行かれるのかどうして分かるでしょうか」と問い返します。主は、「私こそ、道であり、真理であり、命である。私を通ってこそ人は真理と永遠の命へと救われるのである」と言われます。それからあの好意的に描かれ、5000人の給食では「200デナリオン分のパンがあっても皆が満腹するためには全く足りないでしょう」と答えた、計算のよく出来るフィリポも、「主よ、父を見させてください、そうすれば私たちは満足します」と、新たに対話が進んでいきます。主は、「フィリポよ、こんなに長く一緒に歩んできたのに、あなたは父が分からないのか。私において、父はおり、父において私はいる、私をみているものは父をも見ているのだ」と言われます。そして、「私へと信じるものは、私と同じ業をし、私以上の大きな業をするであろう」と、言われます。私たちが、神の救いに与り、また、主と同じように、あるいはもっと豊かに、多くの人々をキリストによる救いに導くことが出来ると約束されるのであります。そして、「私の名においてあなた方が要求し、祈るならば、私がそれを行い、かなえるであろう、そして、父なる神は私によって栄光をお受けになる」と言われるのであります。私たちは、主が父のもとに出発し、父の家に永遠の住まいをもうけて、私たちの最終の住処を定め、また、戻ってきて、あなた方の願いをかなえ、私たちが主の名において要求することは何であれ、主がなしてくださり、祈りを聞いてくださると約束されているのです。私たちの日常の不安や闇や葛藤を超えて、主が永遠の平安を与えてくださいます。アーメン。
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2008/04/20(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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