津田沼教会 牧師のメッセージ
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「捨てて生かす命」(ヨハネ10:1~16)中川俊介牧師(八王子教会)
ヨハネ10:1-16、2008・04・13、復活後第3主日(典礼色―白―)
使徒言行録6:1-10、ペトロの手紙一2:19-25

ヨハネによる福音書10:1~16
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす。―彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。



説教「捨てて生かす命」(ヨハネ10:1~16)中川俊介牧師

 現代社会にはますます傷が広がってきています。子供のころの心理的な傷が癒されずにそのまま残って、家庭内暴力、アルコールや薬物依存症、鬱病、人格障害になってきています。学校で課題を提出させたら、「先生、遅くなってすみません」と出した手に、リストカットの筋が10本以上ミミズばれみたいになっていた。普段は明るい子なのになと不思議に思った。この世で、教会が地の塩、世の光として働く大きな必要性が生まれている社会です。
 今日の箇所には、羊飼いのことがたくさん出ていますね。私たちの社会に、世の中をよくするために、資金とか設備とか制度も必要ですが、それを機能させる人材がなくては、何も達成できませんね。羊飼いが必要です。
 私の知っているある教会は、数億円の資金で、教会堂を建設。しかし、礼拝出席は10数名、建物はあっても、羊飼いが羊飼いとして機能していないのではないでしょうか。
これは、決して現代の問題に限られているわけではない。
エゼキエル書34章8節以下、羊の群れは傷ついても、羊飼いは自分のことしか考えていない。自分を養うことが、第一目標、過去の社会でもそんなことがあったのですね。
ですけどね、ヨハネの福音書は、7章あたりから、ユダヤ人指導者の不信仰の問題を扱っています。ですから、羊が逃げ去ってしまう。10章5節の偽りの羊飼いは、ファリサイ派などのユダヤ人指導者層に向けられたものです。責任を持っている者がその責任を果たしておらず、自分のことしか考えていない。
つい先日も、高齢者の医療負担がますます増えていることに関して、テレビで、ある政治学者が話していました。原因のひとつは、政治家にある。とくに、政権政党の自民党では、二世政治家が50パーセントを越えている。するとどうなのか。世の中を少しでもよくしようとしているのではなく、親から受け継いだ票田を守るために政治をやっている。イエスさまの言葉によれば、盗人や強盗、盗んだり、屠ったり、滅ぼす。そういう種類の人たちが指導者にいる。本当に困りますね。
聖書の教えのとおり、二千年前のユダヤ指導者も、現代の日本の指導者層も同じです。民の傷はいえることがない。
ただ自分の傷がいえない者は、人を助けることもできない。罪が残っては、自分が生きていくのに精一杯だから、教会には大きな使命がある。希望があるが、まず、私たち自身が癒される場所です。イエスさまが偉大な羊飼いだから、不可能はありません。そう信じ、傷つき命を失いかけている私たちが新しく命を得ることができるのです。私が来たのは、羊が豊かに命を受けるためだと約束してくださっている。罪の赦しと新生を固く信じていきましょう。信じるだけでいいのです。
さて、ここで、命という言葉が2種類出てきます。ひとつは、ギリシャ語でゾウエイ、超自然的生命、それにプシュケー、地上の生命体。福音書本文を見ますと、10章10節以下で、羊が受けるのは、ゾーエイ、イエスさまが捨てるのはちゃんとプシュケーになっています。つまり、十字架の死は、地上の生命体の死にすぎないということですね。本当の羊飼いでない者は、危険な状況では逃げてしまう。本当の羊飼いは、命を捨てる。プシュケーを捨てて、羊の中にゾーエイが生まれる。迫害や困難に負けないゾーエイを生むために、イエスさまの十字架があった。私たちは、この捨てた命の故に生かされていると言えましょう。
生かされるというのは、素晴らしいことです。
私は、飼う者がないように、荒れ果てた米沢藩を復興させた上杉鷹山の話が好きです。彼は人々の心を癒し、産業を復活させ、莫大な借金を返済しました。ある面で、よい羊飼いだったなと思います。愛ですね。上杉鷹山は命まで捨てはしませんでしたけど、よい羊飼いのような人がいれば、困難な状況も変わるはずです。
イエスさまは、イスラエルの特定の場所の羊だけでなく、全世界の羊を求めて救ってくださる。私たちをも求めて命を与えてくださる。
捨てることによって生かされる。これは絶対真理です。握っていては生きない。
私たちのプシュケーはどうでしょうか。いつまでも健康でいたい。病気はしたくない。もちろんです。でも、十字架は負いたくない。握って離したくないと、実は、失ってしまいます。
イエスさまは、手放して神から与えていただくことを教えた。自分のやり方に固執しないことです。御心を求めることです。捨てることです。自分を捨てることです。自分の常識とかプライドとか恐れとか楽をしたい気持ちを捨てることです。十字架上でイエスさまは、父よ、私の霊をみ手にゆだねますと叫んで、プシュケーを捨てられましたね。
勿論、私たちは十字架にかけられてはいません。しかし、み手にゆだねますという捨て方は大切です。聖書の中に出てくる百人隊長がいます。彼はイエスさまに一言おっしゃってください、その通りにします、と言いました。
つまり、右と言えば右、左と言えば左、神という権威に心から従い、自分を捨てた生き方なのです。そんなことをしていたら、プシュケーは失ってしまうかもしれない。しかし、永遠の生命であるゾーエイは捨てることによって与えられる恵みなのです。失うようだけれども、本当は得るのです。従って、イエス・キリストの十字架の救いを信じる者は、命を受け、豊かに受けることが保証されています。
羊飼いの話は、しかし本当は牧者の話なのです。牧者といえば、現代の言葉では牧師です。まず牧師が命を捨てる覚悟がなくては羊である信徒は命を得られないでしょう。現代の教会はこの点を考えなくてはいけません。
ただ、昔も群れを養わない牧者とか司祭の問題はあった。クリソストムという人がいました。彼は立派なクリスチャンで人々から祭司になるように懇願された。しかし、とても自分にはできないと辞退し、「祭司道」という本を書いた。その中にこう言っている。「祭司はキリストと同じ像を持ち、迫害に耐え、自分は神の供え物となり、多くの人のために命を捨てる者でなければならぬ。到底自分のごとき者ができる務めではない。」まさに今日のヨハネの福音書です。しかし、のちに彼は熱心に頼まれてやむをえず、祭司となり、社会の不正と戦い、最後は迫害によって殉教しました。
彼は、祭司になって、プシュケーは捨てたが、ゾーエイである永遠の命は与えられたのだと思います。そこで、皆さんにもお願いがあります。ルーテル教会では万人祭司が共通の教えになっていますね。ですから、皆さんも本当はクリソストムなのです。祭司です。私は既に祭司ですから、皆さんにもお願いしたい。皆さんもまた、羊飼いなのです。その自覚をさらにはっきり持ってほしい。その仕事は命を捨てることです。この殺伐とした傷ついた社会を癒す羊飼い、それが皆さんです。私も津田沼では皆さんに支えられ、命を与えられました。八王子でも同じです。とくに素晴らしい信徒が中から二名来てくれた。彼らは牧師に命を与えてくれる羊飼いです。羊飼いがいるときに、どんな荒れた社会も必ず癒されます。エゼキエル書の言葉は、願望でも理想でもありません。預言です。34節以下を読みましょう。これは、皆さんご自身に対する預言です。キリストが命を捨て、自分の思いを捨て、神の思いに従った。私たちも自分の思いはあります。しかし、それを手放しましょう。愛において手放しましょう。本当は死は捨てないことです。捨てることによって、命が豊かにあふれる。そう預言されている。今日のペトロの手紙にも「あなたがたが召されたのはこのためです」とありました。
失われたものをたずね求めましょう。傷ついたものを包みましょう。弱ったものを強くしましょう。現代の社会、現代の教会は皆さんを必要としています。いや、神ご自身が地の塩、世の光としての皆さんを必要としています。その道は必ず命に至るでしょう。祝福です。



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2008/04/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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