津田沼教会 牧師のメッセージ
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「見ないで信じる人は幸い」(ヨハネ20:24~29)
ヨハネ20:24-29、2008・04・06、復活後第2主日(典礼色―白―聖餐式)
使徒言行録2:36-47、ペトロの手紙一1:17-21

ヨハネ20:24~29
 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


説教「見ないで信じる人は幸い」(ヨハネ20:24~29)
 
復活節のこの喜ばしいときに、本日与えられている福音はヨハネ20:24-29のトマス物語であります。トマスは、主の復活をそう簡単には信じない、疑い深く、ある意味では頑なであり、安易に信じることはためらう現代人の我々に良く似た性格の人物であったようであります。ディドモと呼ばれるトマスと紹介されていますが、これは、双子であったことを指しているのかもしれませんが、二重性という意味を持っているのかもしれません。トマスは、主が危険なベタニアに戻ってラザロを再び死から起き上がらせようというときに、「私たちも主と共に行って死のうではないか」と少しとんちんかんな発言をしていますし、主イエスが「私は、道であり、真理であり、命である」と言われたときに、そう言われる少し前の部分で、「先生の言われる道とはどんな道なのか、私には分かりません」と答えています。理解するのが少し鈍く、遅い面があるが、いったん納得すればどこまでも意志を貫いていくといったような性格の二重性があったのではないかとも想像されます。
本日の場面は、主が復活なさった日から8日後であり、1週間後の日曜日であります。そして、最初の主の復活の日には、トマスは、ほかの12弟子たち、既にユダはいませんから、正確には、10人と共にいなかったと本日の記事では説明されています。
この週の始めの日も彼らは家の中におり、彼らはそれ以前のことではありますが、トマスに、私たちは主を見たと言いますが、トマスはこう答えるのであります。「私はあの方の両手の釘跡を見て、その中に私の指を入れて見なければ、また、あの方のわき腹に私の手を入れてみなければ、決して信じないだろう」と。実際に自分の目で確かめ、証拠をつかまなければ、あなた方の証言だけでは私は信じることはできないとトマスは言うのであります。現代の科学文明の発達した私たちと同じような懐疑的で合理的な考え方をする人でありました。
さて、この最初の主の復活顕現から1週間後の主の日に、彼らは、家の戸にはみな鍵をかけて同じように集まっていたのであります。すると、1回目と同じように、主はやって来られます。そして、平和があなた方にあるようにと、前回と同じようにみなの真ん中に立たれて弟子たちを祝福されたのであります。そして、トマスに言われます。「あなたの指を、私の手の釘跡に入れなさい。また、あなたの手を私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。トマスの言っていたとおりに、主はご自分の肉体をお見せになり、トマスの願っていたとおりにするようにと示されたのであります。トマスは、もはやそれ以上疑うことはできませんでした。そして、おそらく、主の体に触れることはしないで、「私の主、私の神よ」と復活の主への信仰を告白したのであります。
主は言われます。「あなたは見たので信じたのか。幸いな者たち、すなわち祝福されている者たちとは、見なかったが、しかし信じた者たちである。」また、ここでは前半の疑問文は、「トマスよ、あなたは見たので信じたのである」とも読むことができます。こうして、本日の記事は、見ないで信じた者たちへの祝福の言葉で終わっています。そして、主イエスとの弟子たちのお別れの場面は出てきません。それは、復活の主と弟子たち、すなわち、私たちとの交わりは、今後永遠に途絶えることがないものだからであります。私たちは、復活の主を肉体を持って見る事は、現在主が父なる神のもとにあげられている以上、不可能であります。しかし、弟子たちの証言や主のお言葉を通して、私たちは、彼らと全く同様に、いや、主が言われるように、見ないで信じた者として、より以上に祝福された、主との永遠の交わりを持つことができるのであります。
確かに、現代の私たちの社会は病んでいます。恐ろしい事件がたびたびこのところも起こっています。また、文明の利器は、インターネットなど、本当に便利になりましたが、それも悪用されて用いられれば、私たちは誘惑に陥ったり、真理の道をはずしてしまうことが、容易に起こります。2000年の歴史を通して私たちを決して裏切ることのない真理のお方は、私たちにとって十字架の釘跡と槍でわき腹を刺された、しかし、その死という絶望から復活された本日の主お一人であります。
本日は、幸いなことに、この復活の主と交わる聖餐に、この後、与ります。そして、私たちは、聖餐式のない主日においても、本日、トマスと弟子たちに姿を現しになった主との永遠の交わりに毎週の礼拝において招かれていることを常に思い起こしつつ、私たちのそれぞれ与えられた生涯へと週ごとに力を与えられて派遣されていきたいと思います。
祈りましょう。
 天の父なる神さま。
 私たちは、主がトマスに現れてくださった出来事を通して、また、その主のお言葉を通して、より深い信仰へと招かれています。私たちの疑いやためらいや弱さをあなたはよくご存じです。主のお言葉を信じ、また、弟子たちの証言を信じて、堅く信仰に立って歩む者とならせてください。私たちがなすべきこと、また、できることをなしていく勇気をお与えください。人間はやがてはどんなに活発であった人でも、みな衰え行く存在でありますが、日々、み言葉に従って歩み、体は朽ち行くとも、信仰はますます盛んになるような生き方に、あなたが導いてください。み子、キリストによって祈ります。アーメン。

わたしたちの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。


 





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2008/04/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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