津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスが来られる」(マタイ21:1~11)内海望牧師
マタイ21:1-11、2008・03・16、枝の主日
ゼカリヤ書9:9-10、フィリピの信徒への手紙2:6-11

マタイによる福音書21:1~11
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
 柔和な方で、ろばに乗り、
 荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ダビデの子にホサナ。
  主の名によって来られる方に、祝福があるように。
  いと高きところにホサナ。」
 イエスがエルサレムに入られると、都中のものが、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。



説教「主イエスが来られる」(マタイ21:1~11)内海望牧師
 
 今日の説教題を御覧になると、クリスマスの説教題のように感じられる方も多いことでしょう。当然です。何故なら、待降節(アドベント)の第一主日に読まれる聖書の箇所が必ず「枝の主日」あるいは「受難主日」と呼ばれる受難週の始まりの時にも読まれるので似たような題になるのです。また、教会の典礼色(聖壇の色)もアドベントも「王の尊厳」「悔い改め」を表す紫で、同じです。
 これは、教会が長い歴史を通して「アドベント」と「受難」を同じ意味内容で捉えて来たことを示します。「主が来られる=アドベント」ということは「主の受難と十字架=贖いの死」への道を歩まれるという出来事なのです。また、これこそ福音の中心であることを教会は告白して来たのです。このことを念頭に置いて、共にみ言葉に耳を傾けましょう。
 イエスさまはいよいよ十字架に向かってまっすぐに歩んでおられます。この(受難)週の金曜日には十字架につけられるのです。
 今日の聖書の箇所は、「イエスさまのエルサレム入城」と題されることが多い個所です。確かに、5節には旧約時代に約束された「王の入城」の預言の言葉が用いられています(ゼカリヤ9:9)。しかし、イエスさまは「王の入城」という言葉に相応しく、白馬にまたがり、威風辺りを払うというような姿ではありませんでした。荷物を運搬すること、重荷を負うことが役目の柔和な子ろばに乗って、エルサレムの門をくぐられたのです。およそ王としては似つかわしくない姿でした。
 この姿は、近隣の国々を威圧するような王さまを期待していた人々の心は裏切ったかも知れませんが、私たち信仰者にとっては、まさに福音の到来でした。イエスさまは私たち人間の罪を負うために来られた方であったのです。イエスさまは「迎えられた」のではありません。あくまでもイエスさまが自ら進んで十字架への道を歩み、私たちの許に来られた方なのです。
 ルターも「来られた方」という点を強調して以下のように語っています。「主は来られます。あなたが主を求めるのではなく、主があなたをお求めになるのです。あなたが主を見出すのではなく、主があなたを見出して下さるのです」と。
 イエスさまは「柔和で、私たちの重荷を負う方」として来られました。「子ろばに乗って」ということは、神の子であり、真の王である方が、すべてを捨てて「貧しく、無価値な者」として来られたということを意味します。そして罪の故に「御顔を避けようとする」私たちを求め、見出し、私たちを罪と死から救おうとされたからです。
 十字架は極悪人に課せられる刑罰です。イエスさまは私たちが受けるべき罰を担って下さるお方なのです。
 また、イエスさまは十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と神さまに向かって叫ばれた方です。人々からだけでなく、神さまからも見捨てられたと思う苦しみの中に生きる人間の苦しみを共有して下さる方なのです。ですから、私たちの苦しみ、痛み、生きる辛さを思いやることができるお方なのです。

 また、イエスさまは、「汚れた人々」として軽蔑され、疎外されていた「重い皮膚病にかかった人々」に触れて、いやされました。また、「12年間も出血に苦しむ女性」が服の房に触れることを気になさらなかったばかりか、いやされたことを共に喜んで下さる方でした。私たち人間の最も苦しい状況にまで下ってこられた方なのです。しかも、単に「来られた」のでなく、手を差し伸べるだけでなく、「触れて、共に苦しんで下さる方」なのです。イエスさまが寄り添って下さるので、私たちは決して孤独になりません。

 イエスさまは私たちのためにすべてを捧げて下さった方です。教会では「主イエスの奉献」という言葉が長く用いられて来ました。これは、神さまのひとり子であるイエスさまが私たちのためにすべてを、命さえも捧げて下さったという意味です。「善い業」とは、あれこれの個々の業でなく、隣人のためにすべてを捧げることであることをイエスさまによって知らされたのです。この出来事から初めて人間の隣人への愛が生まれ、人間の「奉献」(献金)が生まれてきたのです。式文の歴史がそれを示します。

 イエスさまは、子ろばに乗ってエルサレムに入城されます。群衆は「ホサナ」と叫んでお迎えします。この人々が、やがてイエスさまを「十字架につけよ」と叫び始めます。これが人間の姿です。私たちは自分の都合で人を愛したり、裏切ったりします。いざという時は自分を守るために親友も裏切るのが人間の悲しい姿です。イエスさまは私たちの許に「来られる」方なのです。
 山上で、輝く栄光の中で、モーセとエリヤと語り合う喜びを捨て、「山を降って」汚れた霊によって苦しみもだえる子どもを癒されるイエスさまを思い出して下さい。
 聖書にはいろいろな奇跡物語があります。そのような個々の奇跡を信じるか信じないかということより、神さまのひとり子がその身分を捨てて、私たちの世界に来られた、私たちのために命を捨てて下さったという真の奇跡を大胆に信じましょう。「私なんか救いに値しない」などと言ってはなりません。ここに福音のすべてがあるのです。包み隠さず、大胆に罪人である自分を告白し、悔い改めましょう。その時、私たちは赦される喜びを経験できます。「赦される喜び」にまさる喜びはありません。
 私たちは聖餐式のおり、「設定の辞」の前で「サンクツウス」を歌います。これは今日の日課で「ホサナ」と叫ぶ群衆の賛歌そのままです。教会は2000年の間、「来られる方を称えよ」と賛美の歌を歌い続けて来たのです。
 私たちは、聖餐式で、このエルサレムに入城されるイエスさま(過去)、そして、今目の前にあるパンとぶどう酒を通してイエスさまの来臨を経験し(現在)、そして終わりの時に再び来られるイエスさま(未来)を信じて「サンクツウス」を歌うのです。
 このように、イエスさまは過去、現在、未来を通して、わたしたちの許に来られ、私たちと共に喜び、苦しみ、痛みを分かち合って下さるのです。そればかりではありません。イエスさまは、その十字架の血によって私たちすべての罪を赦し、死と罪とから救い出し、永遠の命を与えて下さるのです。
 これからの一週間、他ならぬこの私のところにまで来られて、私のためにすべてを捧げて下さったイエスさまに感謝を捧げる時として過ごしましょう。そして、「罪赦された罪人」「新しい命を与えられた者」としてイースターを共に喜び迎えましょう。
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2008/03/16(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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