津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスが与える命」(ヨハネ11:17~53)
ヨハネ11:17-53、2008・03・09、四旬節第5主日(典礼色―紫―)
エゼキエル書33:10-16、ローマの信徒への手紙5:1-5

ヨハネによる福音書11:17~53
 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終りの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、ここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。




説教「主イエスが与える命」(ヨハネ11:17~53)

 本日は四旬節第5主日を迎えました。もう来週は枝の主日で、今日から2週間後で、復活祭を迎えることになります。そして、このレントの第5主日の今年A年の福音の日課は、ヨハネ11:17-53という非常に長い記事が与えられています。この時期にこの個所が読まれるのは、どういう意味があるのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 言うまでもなく、四旬節とは、主イエスが十字架につかれるその道行きを思い起こすべき時であります。そして、本日の記事は、ラザロが死から起き上がるというしるし、すなわち、通常の自然なコースとは矛盾する出来事が中心となっています。一度死んだ人間が再びこの世界の命へと起き上がるということは考えられないことでありますが、聖書はそのような出来事をいくつか記しているのであります。それは、私たちが、外見的には生きていても、精神的・霊的には死んでいるような経験もしますが、そのような現実に対して真の命に死からよびさまされ、神のみ心にかなった生き方をするというようなことも指し示すものではありましょう。
先週のヨハネ9章の記事において、生まれつき目の見えなかった人が、主イエスによって見えるようにされ、次第次第に主イエスこそが、預言者であり、信じゆだねるべき人の子であり、そして罪という闇から救い出すこの世界のまことの光であることが、分かり、見えるようにされていったように、本日の出来事も、主イエスへの信仰によって、たとえ肉体的には死んでも、彼へと信じゆだねることを通して、永遠に滅びることのない命を私たちが生きることが出来るようにされることを教えているのであります。
 主イエスは、ラザロが重い病気であったとき、ベタニアに直行せず、ラザロは死んでしまいます。そして、弟子たちを連れて、ベタニアに向かいます。そして、ある地点まで来たとき、主は、ラザロが死んでもう四日も墓の中で横たわっているのを知らされます。そして、おそらくラザロの姉であったでありましょうか、マルタを呼びに行かせます。マルタは、イエスのもとへと出て行きますが、マリアは、家の中で座っています。大勢のユダヤ人が、3キロ弱離れたエルサレムから、二人の姉妹を慰めにやって来ていました。そして、マルタは、主にあったとき、言います。主よ、あなたがもしここにおられたなら、ラザロは死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神に願うことは何でも神はあなたにお与えになることは今でも知っています、と。すると、主は言われます。彼は起き上がるであろう。マルタは、答えます。終わりの日における起き上がりの時、復活のときに、彼は起き上がることは信じています。
それに対して、主は言われます。私は復活であり、命である。私へと信じる者は、たとえ死んでも、生きるであろう。私へと生き、信じる者は、永遠へと決して死なない。このことをあなたは信じるかと。マルタは言います、はい、主よ、私は信じました、あなたがこの世界にお出でになられたメシアであり、神の子であることを、と。
 私たちは、死の前には、すべてが空しいと感じています。けれども、主イエスは、復活であり、命である。私へと信じて生きるものはすべて、永遠に滅びないと約束してくださるのであります。たとえ、肉体は滅んでも、主イエスによって与えられる命は滅びることはないと言われるのであります。
 さて、マリアは、家に帰り、マリアに、主がおいでになっており、呼んでおられますというと、マリアは立ち上がり、急いで出て行きます。それを見たユダヤ人たちは、マリアは、墓に泣きに出て行くのだろうと、後を追います。マリアも、イエスの足元に跪いて「主よ、あなたがここにおられたら、ラザロは死ななかったでしょうに」とマルタと同じ言葉を語ります。主は、涙を流したとあります。そして、ユダヤ人たちは、彼は何とラザロを愛していたことかと言い、盲人の目を開けた彼も、ラザロが死なないようにすることは出来なかったのかと言い合います。
主は霊において憤られ、動揺されます。それは、迫っているご自分の十字架上の死に対する心騒ぎであったと共に、周りにいたユダヤ人たちの不信仰に対しての憤りであり、叱責を含んだものであったでしょう。主は、彼をどこに置いたのかと尋ねます。彼らは、来てご覧くださいといいます。そして、墓穴をふさいでいた石を取り上げるように言います。マルタはもう四日たちますから臭いますというと、主はあなたは信じるなら神の栄光を見るだろうと言っておいたではないかと言われ、そして、目を上にもたげ、父なる神にこう祈ります。父よ、あなたに感謝します、あなたは何でも私に耳を傾けてくださいます。このように言うのは、周りにいる者たちが、私があなたのもとから遣わされたことを信じるようになるためです、と。 そして、ラザロ、出てきなさいと主は大声をあげます。すると、ラザロは、足や手を布で巻かれたまま、起き上がり、顔はおおいをしたまま、出てきます。主は、彼に行かせなさいと彼らに命じます。
 そして、主のなさったしるしどもを見たユダヤ人たちの多くは彼へと信じゆだねます。しかし、あるものたちは、ファリサイ派どもや祭司長たちのところに行って伝えます。するとそのユダヤ教の指導者たちは、最高法院を召集して、彼がこんな多くのしるしどもをしているからにはどうしたものかと言います。彼をこのままにしておくと、この場所・神殿も、この国民も取り去るだろうと言い合います。
その時、まさにこの年の大祭司カイアファ、―彼は実際には長年大祭司の地位にあったのですが、―彼が、神の道具として、預言して言います。一人の人が国民全体のかわりに死ぬほうがあなた方によいことをあなた方は知らないと。それは、ただその国民、その民のみならず、世界に散っている神の子たちが一つに集められることになるとも預言して言ったのであると記されています。これは、ユダヤ人だけでなく、異邦人の中からも主を信じるに至る民が起こされ、一つの新しい民とされること、教会が生まれることを知らず知らずして、カイファは語っていたのであります。そしてこの日から、最高法院の者たちは、主イエスを殺そうと決議したのであります。本日のラザロの死からの起き上がりが、主イエスの十字架上でのすべての神の子たちのための死、キリストを信じる民全体の罪の償いとしての主イエスの死をもたらすことになったのであります。
しかし、本日の出来事を通して、私たちは死という闇を主イエスが打ち破り、永遠に朽ちない命を生きることが可能になったことを信じることができます。私たちは、今もそれぞれが闇・死に打ちのめされるような困難な経験をしますが、それを上回る命の道が主によって既に備えられているのであります。このことを想起しながら、この1週間を過ごしていきたいものです。アーメン。
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2008/03/09(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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