津田沼教会 牧師のメッセージ
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「苦難と奉仕の道」(マタイ20:17~28)
マタイ20:17-28、2008・02・17、四旬節第2主日(典礼色―紫―)
創世記12:1-8、ローマの信徒への手紙4:1-12

マタイによる福音書20:17~28
 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何か望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」




説教「苦難と奉仕の道」(マタイ20:17~28)

 四旬節の第2主日である本日、与えられている個所は、マタイ20:17-28であります。この四旬節の時期は、古くから、洗礼準備の期間として守られる習慣がありました。それは、洗礼を受けようとしている洗礼志願者だけでなく、既に洗礼を受けている私たちも、自分が洗礼を受けた時のことを思い起こす時でもありましょう。
 さて、本日のテキストは、そのような四旬節に、主の十字架への道行きを私たちも思い起こし、今一度辿ってみるのに、ふさわしい個所であります。新共同訳聖書の本日の個所は、明瞭に二つの部分に分けています。すなわち、マタイ20:17-19と20-28であります。
前段は、第3回目の受難予告であります。主イエスが、マタイ福音書の中で最後に置いている受難予告であります。これは、もちろん、マルコによる福音書の同じ記事、並行個所をもとにして、マタイがそれに付加したり、省略しているのであります。マルコは、この最後の受難予告の時、「弟子たちは、驚き、恐れた」と記していますが、マタイはそれを省いています。また、マタイでは、主が「十字架につけられる」と明記していますが、マルコではただ「彼らは彼を殺すであろう」とだけ書かれています。
 もう一度、この場面を思い起こして見ましょう。主は、エルサレムへと上って行くとき、12人だけを、別のところに連れて行ってから言われます。おそらく、ガリラヤからの祭りに赴く巡礼者たちが大勢、エルサレムに向かっていたことでしょう。主は彼らに言われます。「見よ、私たちはエルサレムへと上っていく。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されるであろう。彼らは彼に死を宣告し、異邦人たちに引き渡し、異邦人たちは、彼を嘲り、鞭打ち、十字架につけるであろう。そして、彼は三日目に起き上がらされるであろう。」
 エルサレムが近づくにつれて、受難予告の内容もより明確になってきます。マタイは、主イエスが、ユダヤ人の私刑、リンチのような仕方で殺されるのではなく、十字架刑という正式なローマの裁判に従っての公の死刑で殺されることを主に語らせています。そして、彼は三日目に起き上がらされようと。そこまで、現実に主イエスが語りえたかどうかは別としても、ホセア書6章の「三日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる」(2節)という表現が想起されて用いられているのかもしれません。しかし、いずれにしても、弟子たちは、主イエスに起きようとしていた受難の真相について、その時点ではまったく理解してはいなかったのであります。
 そして、この最後の受難予告に続いて、本日の記事の後半の出来事20:20-28が記されています。マルコでは、ゼベダイの子らが直接、イエスに向かって要求していますが、マタイは、12弟子であるヤコブとヨハネの信用を害することを避けるためか、この二人の母が、その時やって来て、ひれ伏し、何かを要求したとあります。主は、「あなたは私に何をしてほしいと望んでいるのか」と聞かれます。すると、その母は、「あなたのみ国において私の息子たちの一人をあなたの右に一人をあなたの左に座ることになろうと言ってください」と頼んでいるのであります。キリストの国、すなわち、教会において指導的な地位を求める競争がマタイがこの福音書を書いた当時あったことでしょう。母親はわが子のためには何でもするというよくある事例をマタイは用いて、12使徒としての尊厳を失わないように配慮した結果かもしれません。
それに対して、主イエスは、二人に向かって、言われます。「あなた方は自分たちが何を願っているのか分かっていない。あなた方は、私が飲もうとしている杯を飲むことができるか」と質問されます。彼らは、「できます」と答えます。この杯を飲むというのは、旧約聖書の言い方で、ここでは裁きとか罰を意味します。主は、ご自分の身に神の裁きとか罰をあえて、引き受けられるのであります。そして主は、一方で、あなた方は私の杯を飲むことになろうが、他方、私の右左に座らせることは、私に与えられておらず、父によって備えられている者たちに許されることなのだと言われます。事実としては、ヤコブは、使徒言行録を見ると(12:2)、ヘロデ・アグリッパ王によって、剣にかけられることになります。ヨハネについては殉教の死を遂げたという確かな証拠は残っていません。しかし、いずれにしても、弟子たちは、厳しい試練を経なければならないことは主の言葉によって確かであります。
 さて、このことを耳にした残りの10人は、二人の兄弟のことで腹を立てます。そのとき、主イエスは、彼らを呼び集めて言われるのであります。「異邦人の間では、支配者たちは人々の上に主人となっている、そして、大きい者たち・偉い者たちが、人々の上に圧制を強いている。しかし、あなた方の間では、大きくなりたい者、偉くなりたい者は、すべての人の奉仕者・ディアコノスになるであろうし、第一になりたい者は、すべての人の奴隷・
しもべになるであろう。ちょうど、人の子・私が来たのがディアコニアを受けるためではなく、ディアコニアをするためであり、多くの者たちの身代金としてこの命を与えるためであるのと同じように」、と教えられたのであります。
 人の子は、十字架につけられ、そして、多くの人々の、すなわち、これはすべての人々のという意味ですが、その身代金、誘拐されたものを解放するための代価、ご自分の民を罪の囚われの身から救い、自由にするために、ご自分の命を差し出されるのであります。その結果、私たちは罪の奴隷から解き放たれたのであります。主イエスは、イザヤ書53章にあるように、苦難の僕として来られ、それは「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら背負った。・・・彼は自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられた・・。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」(53:11、12)とあるとおりであります。
 私たちも、主イエスの十字架に従う時、多くの苦難と試練に出会わざるをえないと、主は警告しておられます。そして、主イエス御自身がそうであったように、仕えられるためではなく、仕えるために、私たちは、洗礼を受け、新しい人生の出発をしたはずであります。そして、実は、厳しい試練と苦難の中にあって人々に仕える道こそ、真の喜びの道であり、新しい命と生きがいの道であります。祈りましょう。
 父なる神さま。
 私たちは、人から、あるいは家族から仕えられることを望み、また、権威や権力をもって人々のなかで中心であろうと願い、また、同僚の中にあっては、抜け駆けの功名を得ようとしがちな、弱い存在です。しかし、主イエスの弟子として、主ご自身が私たちに代わって罰と裁きを引き受けてくださいましたように、私たちも、自分の罪に死んで、すべての人々に喜んで仕える者としてください。この四旬節、慎ましやかな心で主イエスの十字架への道行きを日々思い起こしつつ過ごさせて下さい。キリストによって祈ります。アーメン。

 



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2008/02/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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