マタイ4:1-11、2008・02・10、四旬節第1主日(典礼色―紫―)
創世記2:15-17、3:1-7、ローマの信徒への手紙3:21-31
マタイによる福音書4:1〜11
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の端に立たせて、言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
説教「神の子の従順」(マタイ4:1〜11)
先週の水曜日、「聖書を学び祈る会」に代えて午前、午後と2月6日に灰を額につける式の礼拝を持ちました。その日から、日曜日を除く40日間が四旬節であり、受難節とも呼ばれます。そして、今年の復活祭は3月23日(日)に当たっております。
さて、私たちは、この四旬節の第1主日にマタイ4:1-11を与えられています。
この個所を読みますとき、私は、亀井勝一郎という作家・評論家であった人の言葉を思い起こします。それは、このときの耶蘇は、まだ、権威が足りない、悪魔の誘惑・試みに対して、ただ聖書にこう書かれてあると繰り返すばかりだからであるというのです。
しかし、確かに、神の子が宣教を始める前に、その準備段階として、悪魔の誘惑と戦ったのだから、慎重を期してやむをえなかったのだとも取れますが、ここでの主イエスは、神の子としての父なる神への徹底した服従・従順であったのではないでしょうか。本日の福音の記事をしばらくご一緒に考えて見ましょう。
本日の記事の構成は、明瞭であります。まず始めに、霊が主イエスを荒れ野へと導き上ります。主イエスが洗礼のときにこの霊、聖霊はくだり、これは、私の子、愛する者、私の心に適う者と天から神の声がしたときに、くだったその同じ霊が、主を悪魔の誘惑にあわせるために荒れ野に導き上ります。そして、第1の誘惑は、40日40夜の断食の後に来ます。悪魔は、そのときに空腹を感じた主に、石どもをパンに変えたらどうだというのです。主は、「人はパンだけで生きる者ではない、神の口から出るあらゆる言葉によって生きる者だ」と書かれてあると申命記の中から、聖書の言葉を用いて、悪魔に対抗します。
ところで、40日40夜の後の誘惑・試練は、イスラエルの民の荒れ野での40年の体験を考えているものであります。イスラエルの民は、神へのまったき信頼、心からの従順を示すことが出来ませんでした。イスラエルの民も主イエスと同じように、神によって私のこと呼ばれ、神の子と呼ばれた存在でした。主イエスは、第一の誘惑に対して、申命記の言葉を引用して石をパンに変える奇跡を拒みました。
私たちは、聖書の言葉あるいは、主なる神のみ心に従って歩むことによって、真の命を生きることができるのです。
次に第2の誘惑は、悪魔、ディアボロス、誘惑するもの、サタン、それらはいずれも同じものですが、今度は、悪魔は聖なる都の神殿の尖端に主イエスを置いて、言うのです。神の子であるからには、そこから飛び降りたらどうだ、なぜなら、こう書かれている。「彼はその天使たちに命じてあなたの足が地に打ち付けることがないように手でもって受け取ってくれる」と。
主イエスは、こうも書かれている。「あなたの主なる神を試してはならない」とやはり申命記の言葉でもって対抗します。主イエスの道は十字架の道でありました。これみよがしに、高い所から飛び降りて見せる見世物のような奇跡をおこなうことではないのです。
さて、最後の第3の誘惑は、主を非常に高い山に連れて行き、世界の王国のすべてとその栄光・「まばゆいもの」を見せて、もしあなたがひれ伏し、私を拝むなら、これらすべてをあなたにあげようというものでした。これは、神ならざる悪魔を偶像礼拝するようにという最後の露骨な誘惑でした。
主イエスは、「サタンよ、退け、『主のみを拝み、主のみに仕えよ』と書いてある」とやはり申命記の言葉から選んで、これに打ち勝ちました。そして、最後の節では、その時、悪魔は離れる、そして、天使たちが近づいてきて、彼に仕えていたと結ばれています。
主イエスは、私たちが、主イエスとまったく同じような誘惑を受けることはないとしても、私たちが、サタンの誘惑に打ち勝つことが出来るために、神の言葉にまったく従順になることによって、悪魔に対抗する手本を示してくださっているということも言えるでしょう。私たちが、3つの典型に見られる誘惑に打ち勝つためには、神の言葉とそのご意志に従って歩むこと、すなわち聖書と祈りにおいて歩むこと以外には安全な道はないのであります。そして、この40日の四旬節を十字架の道に従う主イエスに従って、私たちも苦難と奉仕、人々に仕える生き方を選び取って歩みたいものであります。アーメン。
創世記2:15-17、3:1-7、ローマの信徒への手紙3:21-31
マタイによる福音書4:1〜11
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の端に立たせて、言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
説教「神の子の従順」(マタイ4:1〜11)
先週の水曜日、「聖書を学び祈る会」に代えて午前、午後と2月6日に灰を額につける式の礼拝を持ちました。その日から、日曜日を除く40日間が四旬節であり、受難節とも呼ばれます。そして、今年の復活祭は3月23日(日)に当たっております。
さて、私たちは、この四旬節の第1主日にマタイ4:1-11を与えられています。
この個所を読みますとき、私は、亀井勝一郎という作家・評論家であった人の言葉を思い起こします。それは、このときの耶蘇は、まだ、権威が足りない、悪魔の誘惑・試みに対して、ただ聖書にこう書かれてあると繰り返すばかりだからであるというのです。
しかし、確かに、神の子が宣教を始める前に、その準備段階として、悪魔の誘惑と戦ったのだから、慎重を期してやむをえなかったのだとも取れますが、ここでの主イエスは、神の子としての父なる神への徹底した服従・従順であったのではないでしょうか。本日の福音の記事をしばらくご一緒に考えて見ましょう。
本日の記事の構成は、明瞭であります。まず始めに、霊が主イエスを荒れ野へと導き上ります。主イエスが洗礼のときにこの霊、聖霊はくだり、これは、私の子、愛する者、私の心に適う者と天から神の声がしたときに、くだったその同じ霊が、主を悪魔の誘惑にあわせるために荒れ野に導き上ります。そして、第1の誘惑は、40日40夜の断食の後に来ます。悪魔は、そのときに空腹を感じた主に、石どもをパンに変えたらどうだというのです。主は、「人はパンだけで生きる者ではない、神の口から出るあらゆる言葉によって生きる者だ」と書かれてあると申命記の中から、聖書の言葉を用いて、悪魔に対抗します。
ところで、40日40夜の後の誘惑・試練は、イスラエルの民の荒れ野での40年の体験を考えているものであります。イスラエルの民は、神へのまったき信頼、心からの従順を示すことが出来ませんでした。イスラエルの民も主イエスと同じように、神によって私のこと呼ばれ、神の子と呼ばれた存在でした。主イエスは、第一の誘惑に対して、申命記の言葉を引用して石をパンに変える奇跡を拒みました。
私たちは、聖書の言葉あるいは、主なる神のみ心に従って歩むことによって、真の命を生きることができるのです。
次に第2の誘惑は、悪魔、ディアボロス、誘惑するもの、サタン、それらはいずれも同じものですが、今度は、悪魔は聖なる都の神殿の尖端に主イエスを置いて、言うのです。神の子であるからには、そこから飛び降りたらどうだ、なぜなら、こう書かれている。「彼はその天使たちに命じてあなたの足が地に打ち付けることがないように手でもって受け取ってくれる」と。
主イエスは、こうも書かれている。「あなたの主なる神を試してはならない」とやはり申命記の言葉でもって対抗します。主イエスの道は十字架の道でありました。これみよがしに、高い所から飛び降りて見せる見世物のような奇跡をおこなうことではないのです。
さて、最後の第3の誘惑は、主を非常に高い山に連れて行き、世界の王国のすべてとその栄光・「まばゆいもの」を見せて、もしあなたがひれ伏し、私を拝むなら、これらすべてをあなたにあげようというものでした。これは、神ならざる悪魔を偶像礼拝するようにという最後の露骨な誘惑でした。
主イエスは、「サタンよ、退け、『主のみを拝み、主のみに仕えよ』と書いてある」とやはり申命記の言葉から選んで、これに打ち勝ちました。そして、最後の節では、その時、悪魔は離れる、そして、天使たちが近づいてきて、彼に仕えていたと結ばれています。
主イエスは、私たちが、主イエスとまったく同じような誘惑を受けることはないとしても、私たちが、サタンの誘惑に打ち勝つことが出来るために、神の言葉にまったく従順になることによって、悪魔に対抗する手本を示してくださっているということも言えるでしょう。私たちが、3つの典型に見られる誘惑に打ち勝つためには、神の言葉とそのご意志に従って歩むこと、すなわち聖書と祈りにおいて歩むこと以外には安全な道はないのであります。そして、この40日の四旬節を十字架の道に従う主イエスに従って、私たちも苦難と奉仕、人々に仕える生き方を選び取って歩みたいものであります。アーメン。
2008/02/10(日) 10:30:01| 未分類|
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