津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神さまが聖書を悟らせてくださる」(ルカ24:44~53)
ルカ24:44-53、2005・05・08、昇天主日
使徒言行録1:1-11、エフェソ1:15-23

ルカ福音書24章44節~53節
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから初めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

説教「神さまが悟らせてくださる聖書」(ルカ24:44~53)
 
本日は昇天主日であります。本日の第一の朗読、使徒言行録の1章にありますように、復活の主は、40日間、弟子たちのもとに現れ、教えをなさった後、天に上げられました。
今年は、5月5日が昇天日で、本日5月8日が昇天主日であります。そして、次週は聖霊降臨祭、ペンテコステとなります。主のご昇天の出来事を通して、そして、聖霊降臨の出来事を通して、主イエスの時代から、教会の時代へと歴史は大きく移っていくのであります。
 本日与えられている福音、ルカ24章の44節から53節を通して、主のご復活とご昇天の意味についてしばらく考えてみたいと思います。
 本日の福音は、44節から49節と、50節から53節の前半部分と後半部分からなっています。順次、それに従って、考えていきましょう。まず、本日の出来事は、あたかも、復活祭の日曜日の一日の間に、主のご復活から、ご昇天に至るまでの出来事がすべて起こったかのごとく、一気に書かれているとも考えることができます。しかし、同じルカによる第二の書、使徒言行録によれば、主イエスは、40日間、弟子たちの下に姿を現し、教えを宣べ伝えた後に、天にあげられたのであります。また、マタイやヨハネによれば、弟子たちは、ガリラヤに帰って、そこで、復活の主とまみえているのであります。これは、どういうふうに考えればよいのでしょうか。福音書を書いたときのルカは、使徒言行録を書いたときに、入手していた資料をまだ知らなかったのかもしれません。しかし、ルカの本日の記事をよく読みますと、必ずしも、復活日の同じ一日において、昇天の出来事が起こっているとは、断定できないのであります。あたかも、一日のうちに、事が進んだかのような印象も受けますが、これは、何日間かかなりの期間にわたった出来事を、ルカは要約して書いているとも、考えられるのであります。
 本日の文章は、エマオからエルサレムに戻った二人の弟子たちと使徒たちのいるところに、主が復活の肉体をもってご自身をお示しになった出来事に続いて、始まっています。
「そして、彼は、彼らに言われた」とつながっているのであります。復活の主が、何を言われたかが、44節から49節で要約されているのであります。すなわち、主はこう言われました。まず、「モーセの律法と、預言者たちと詩編において、私について書かれているすべてのことは、満たされることになっている。このことは、私があなた方といたときに、私があなた方に語っていたことである」と。律法の書と預言者たちの書と詩編は、旧約聖書を指す三分割の言い方であります。特に詩編は、メシアについての言及が多いものと当時考えられていました。マルチン・ルターは、聖書の作者は、イエスであるとまで言い切っています。私たちが、旧約聖書を漫然と読んでいきますときには、それが、イエスについて書いてあるとは到底思えない部分がいっぱいあるように感じます。いや、むしろ、イエスの受難、復活、昇天について、はっきりと預言して書かれてある記事はどこにあるのだろうかとも感じます。現代の私たちにとって、無意味だとさえ思われる部分が一杯あるようにも思えます。しかし、主は、旧約聖書は、私について書かれたものであるとヨハネ福音書でも断言されています。「人の子は、律法学者や祭司長たちや長老たちによって、拒まれ、殺され、三日目に死人のうちから、よみがえる」と生前の主イエスが三度も予告したように、そのようなメシアが来られることを、旧約聖書は、告げているものとして、読むべきものなのであります。主は、そして、彼らを助けて、聖書を悟る理解力・洞察力を与えられたのであります。新共同訳聖書は、「彼らが聖書を悟るようにその心の目を」開かれたと訳しています。復活の主イエスが弟子たちの前に姿を現したのは、聖書すなわち、彼らにとっては今の旧約聖書を理解させるためでありました。聖書が理解できるようになるのは、私たちの才能や努力によることではなく、復活の主が私たちの鈍い心、理解力を開いて、心の目を開いてくださるからであります。確かに何年もかけて教会に通うことを通して聖書や説教が少しずつわかるようにされるのでありますが、聖書の救い、すなわち、主イエスの誕生、受難、十字架の死、復活、そして、昇天の出来事の意味が復活の主ご自身の語りかけや聖霊のとりなしによって、神様の側からの賜物として私たち信者に、また、求道者に見出されていくのであります。 主はそして、彼らに言われるのであります。すなわちこう書かれていると。「メシアは、苦しみを受け、三日目に死人のうちから復活する、そして、彼の名の上に、すべての民に対して罪の赦しに至らせる悔い改めが宣べ伝えられる」と。復活の主イエスは、洗礼者ヨハネがといたと同じ宣教を、また、12使徒派遣や72人の弟子たちの派遣と同じ内容の悔い改めの宣教を繰り返されます。しかし、それは、ユダヤ人のみならず全世界へ向けての派遣であります。「エルサレムから初めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。そして見よ、私は、あなた方に向けてわたしの父の約束したもの、すなわち聖霊を送る。あなた方は上よりの力を身にまとうまでこの都に座っていなさい」と告げられたのであります。
 そして、主のご昇天の後半部分へと移っていきます。そして、主は彼らをベタニアのあたりまで外へと連れ出します。そして主は、両手をあげて彼らを祝福なさいます。そして起こったことには、彼が彼らを祝福するにおいて、彼は彼らから離れます、そして、彼は天へと取り上げられつつありました。彼らは、彼にひれ伏し、そして、大喜びで、都へと引き返しました。そして、絶えず神殿にいて、神をほめたたえていたと、ルカ福音書は結論として書き終えられているのであります。もし、記者が虚構を書いたとすれば、師との別れは悲しみであったと書いたことでありましょう。しかし、彼らは大喜びで指示に従って、エルサレムに戻ったのであります。それは、聖霊を約束されたからでもあり、主の祝福を受けたからでもあり、聖書を悟る心の目を開かれたからでもあったでしょう。そして、使徒たちは、「絶えず」神殿にいて神をほめたたえていたのであります。神殿でイスラエルの贖いを哀願している祭司ザカリヤではじまったルカ福音書は、大祭司イエスの祝福によって、神殿で新しい教会の時代を生き始めた弟子たちの喜びによって、終わっているのであります。私たちも、本日の出来事を通して、新しい時代に生きる者とされています。疑いや迷い、サタンとの戦いは続きますが、私たちは、上よりの力を着て、また、キリストを着て生き、あらゆる試練を乗り越えることができるものとされているのであります。心の方向転換をし、神に心を向けて歩ませて頂く1週間へと新たに派遣されていきましょう。



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2005/05/13(金) 13:45:10| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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