津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「私たちが聞くべき唯一のお方」(マタイ17:1~9)
マタイ17:1-9、2008・02・03、変容主日(典礼色―白―)
出エジプト記34:29-35、ペトロの手紙二1:16-19

マタイによる福音書17:1~9
 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。


「私たちが聞くべき唯一のお方」(マタイ7:1~9)

 今日は変容主日です。神に直接かかわる出来事ですので、聖卓やストールの色は白となっています。主は6日後に、ペトロたち、3人だけを連れて高い山に上られます。で、彼らの前で、主は神々しい姿に変えられ、顔は輝き、その服は白く光ります。マタイでは、主イエスは新しいモーセとして表され、しかもモーセよりもはるかに偉大なモーセとして示されています。シナイ山での6日後に、7日目にモーセの顔が輝き、神と顔と顔を合わせて、語り合い、その顔の皮膚が光り輝いていた、本日の第1の日課が思い起こされます。
 従って、本日の高い山もシナイ山をマタイは考えていると、見ることができます。ペトロは、モーセとエリヤが自分たちに見られ、主イエスと語り合っているのを見て、主よ、私たちがここにいるのは何とすばらしいことでしょう、私は3つの仮小屋を、お望みなら、作りましょうと言います。その時が少しでも長く続くことをペトロは考えました。しかし天的存在ではあるが、主イエスを、モーセやエリヤと同格のもの・偉大な人間として受け止めたに過ぎなかったのです。
さて、そのようにまだペトロが語っているうちに、輝く雲が現れ、雲の中から、語る声がします。
 それをもとの文でみますと「これは私の息子、愛する者、彼を私は大いに気に入っている。あなたがたは、彼に聞き従え」となります。主イエスは神の子であり(詩編2:8)、メシアであり、また、苦難を背負う主のしもべ(イザヤ書42:1)なのです。これは、洗礼のときに聞こえた天からの声と同じです。
そして、加えられている、あなた方は彼に聞きなさいという言葉は、これから先の主の言葉だけでなく、既に語られた、苦しみ、十字架につくという主の受難予告にも聞き従え・それを受け入れよということであります。
私たちは、この雲からの神の声によって、私たちもまた神の子とされるように、本日の主日の祈りにありましたように招かれているのです。
 地上の生活、日常の生活においては私たちは、多くの主イエス以外の言葉によってかき乱される体験をします。しかし、本日の神の啓示の出来事によって、私たちは主イエスにのみ、信頼し聞き従うように、他のどんな優れた人格にも主イエスと同じ絶対的な信頼は置かないように導かれているのです。
 実際には、本日のような出来事は、普通の常識では考えにくいことです。しかし、この超越的な出来事を通して、私たちは、主イエスが神の独り子であり、苦難の僕であることを知ることが出来るのです。神の声を聞いた後、ペトロたちは恐れ、地面に顔をつけ、倒れ伏していました。しかし、主イエスが自ら近づいてきて、手で触れ、起き上がりなさい、恐れるなと、ひるんでいたいんでいた弟子たちを立ち上がらせてくださいます。彼らが目をあげると、イエスだけが見え、モーセたち、律法と預言者の代表である者たち、また、天に神によって引き上げられたと信じられていた二人は、雲に覆われ、既に見えなくなっていました。モーセもエリヤも、旧約聖書に出て来るどんな偉人も、また、聖パウロのような偉大な人物も、主イエスを私たちに紹介するにすぎない存在なのです。そして、人間はどんなに優れた賢い人でも全面的に信頼することは出来ないことを、私たちは知らされるのです。
主は山を下るとき、人の子が復活するまでは、見たことを誰にも話してはならないと最後の沈黙命令をくだされました。この後、受難・十字架と復活の出来事の後に始めてペトロたちは、この日の出来事の意味を知り、証しする者のとされていったのです。
 ペトロたちは、山での神秘的な体験にとどまることは、許されず、この日常の世界で主をキリストだと証ししなければなりませんでした。私たちもこの混濁する日常の現実の世界でキリスト者として、政治家を選択したり、社会生活・経済生活をしながら生きていかなければならないのであります。アーメン。
スポンサーサイト
2008/02/03(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。