津田沼教会 牧師のメッセージ
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『人間をとる漁師に」(マタイ4:18~25)
マタイ4:18-25、2008・01・27、顕現節第4主日(典礼色―緑―)
イザヤ書43:10-13、コリントの信徒への手紙一1:26-31

マタイによる福音書4:18~25
 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。



説教「人間をとる漁師に」(マタイ4:18~25)
 
本日の福音、マタイ4:18-25は、最初の弟子たちの召命、4:18-22と、主イエスの働きの要約4:23-25の二つの部分に分かれます。後半の部分においては、主イエスはガリラヤ中を歩き回っておられたが、彼らの会堂で教え、み国の福音を説教し、あらゆる病気と患いを癒しておられたことが出てきます。私たちにとっては、苦しみに縛られている者、悪霊に所有された者、癲癇、中風・麻痺した者が癒されるということをここで聞くことができることは、本当に有難いことであります。
私たちはだれしもが、病いから癒されたいと願うものであります。病気から何とかしてなおりたいと思うものです。
さて、しかしながら、マタイは、癒されることよりも、また、み国の福音を宣べ伝えることよりも、まず何よりも先に、彼らの諸会堂で教えられている主イエスを最初に記しているのであります。み言葉に聞くことこそが第1に重要であり、み言葉に聞く者たちこそ、真に癒される者であることを示しているのではないでしょうか。主イエスの教え、またそれに聞くことこそ、第一であり、それから、み国の福音の宣教、そして、癒しの働きが主イエスのなされる働きとして挙げられているのであります。
 さて、本日は、津田沼教会の総会も控えていますので、これから、前半の最初の弟子たちの召命について、中心に考えたいと思います。マタイは、ここではマルコ福音書の同じ個所に殆ど従っています。ルカやヨハネ福音書では、主イエスは、前もって、ペトロやアンデレ、あるいは、ヨハネやヤコブとも、弟子となる前にかなりの接触があったように記されています。しかし、マルコに従うマタイでは、前回の主イエスの始めての説教、「悔い改めなさい。天の国が近づいたから」という宣言をも、本日出て来る最初の弟子たちはその聴衆ですらなかったかのようです。
ガリラヤの海沿いを主は歩いておられた時、網を打っているペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレを御覧になった。そして「私について来なさい。あなた方を人間をとる漁師にしよう」と言われた。するとすぐに、彼らは網を後に残して従った。また、進んでいくと、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが父とその舟の中で網の手入れをしているのを御覧になった。そして、彼らを呼んだ。すると彼らは直ちに、舟と父とを後に残して彼に従った、と記されているのであります。
私たちの経験からすれば、ルカやヨハネが示すように、主イエスの弟子となる前に、私たちはいろいろと宗教を遍歴し、いろいろな人との接触や苦しい目に遭ったりして、その挙句にようやく主イエスを自分で選んでその弟子となったようにも思われます。しかし、よく突き詰めて考えるならば、やはり、マタイがマルコと同じく記しているように、主イエスのほうが先に私たちに目をかけてくださり、そして、私について来なさいと人生のある時点で突発的に声をかけ、招いてくださったのであります。それは、主イエスの弟子たちを迫害していた聖パウロが、突発的にダマスコ途上で主イエスに天から声をかけられ、異邦人のための使徒とされたのと同じようなものであります。
「私について来なさい。あなた方を人間を取る漁師にしよう」と主は言われました。網を海に広くひろげて沢山の魚を取る漁師のように、私たちは人間男女を広く、主キリストへと、すなどる漁師へとあるとき、ある機会に思いがけず招かれた者であります。だからといって、私たちは、いままでの職業や所有を捨て去る必要はありません。ただ、私たちは、それまでの生き方を変え、あるいは世界観、ものの見方をかえなければなりません。主イエスの弟子として、今度は人々を主イエスへと、福音へとたぐりよせる漁師とされているものであります。私たちはしばしば、そのことを忘れて、以前の罪の状態へと陥りがちなものでありますが、主イエスによって召されたその日のことを思いこして、人間をとるよき漁師として、原点に立ち返って、常に歩みたいものであります。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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2008/01/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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