津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「暗闇に属する者に光が」(マタイ4:12~17)
マタイ4:12-17、2008・01・20、顕現節第3主日(典礼色―緑―)
アモス書3:1-8、コリントの信徒への手紙一1:10-17

マタイによる福音書4:12~17
 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、
 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
   異邦人のガリラヤ、
 暗闇に住む民は大きな光を見、
 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。



説教「暗闇に座す者に光が」(マタイ4:12~17)

本日のマタイ4:12-17は、4:12-13と4:14-16および4:17の3つの部分に分けられます。まず、4:12-13は、洗礼者ヨハネが渡されたと主が耳にされたとき、主はガリラヤへと引っ込まれた。そして、ナザレを後にして、やって来た後、ゼブルンとナフタリの地、海沿いの地、カファルナウムに住居を取られたということであります。新共同訳は「退かれた」とありますが、これは、主は、ヘロデ・アンチパスを恐れて、難を逃れたのか、あるいは、そこを新たな挑戦の場とされたのか。ガリラヤもヘロデ・アンチパスの管轄内であって、そこへ行けば、危険がなくなるわけではなかったでありましょうが、主は時の来るまで自重され、当面は何を逃れたというほうが可能性が高いのではないかと思います。
ナザレは、身内や知人たちがいる故郷でありますが、そこは、主イエスが宣教を始める場としては不適当であると主はお考えになったのでありましょう。主は、カファルナウムに宣教の拠点を置かれました。それは、ゼブルンとナフタリの地、海沿いの地と説明されています。それは、マタイ福音書記者が、後に続く旧約聖書、イザヤ書の引用につなげるためでありました。カファルナウムという町、あるいは村は、旧約聖書には出てきません。当時、1万人くらいの人口であっただろうと考える人もいます。また、ガリラヤとは、周辺あるいは辺境を意味する地名であります。当時のユダヤ人たちは、ガリラヤから預言者やましてやメシヤが現れるとは考えられなかったようであります。
しかし、それに対して、マタイ記者は、ガリラヤこそ、メシアが現れるべき地であることを旧約聖書を引用して説得しようとするのであります。それは、預言者イザヤを通して言われていた言葉が実現するためであると、4:14から引用定式文を加えていきます。そして、その文を次のように記しています。「ゼブルンの地、ナフタリの地、海沿いの道、ヨルダン川の向こう側、異邦人のガリラヤ。暗闇において座する民は、大いなる光を見た。死の陰の地に座する者たちに、彼らに曙の光が昇った。」これは、イザヤ書8章の終りの節と9章の1節から導いたものであります。イザヤ書では、この通りには出てこず、「先には、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの地、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」となっています。旧約聖書の言葉をてがかりにして、それをイエスの出来事に合うように必要なところだけをマタイの記者は選び取っているかのようです。そして「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」とイザヤ書9:1は続いています。
主イエスの時代、どの程度異邦人が、ガリラヤの地に流入していたかは確かには分かりません。しかし、南のユダのエルサレムを中心とする人々は、軽蔑して「異邦人のガリラヤ」と呼んでいました。その周辺・辺境であった地方から、主イエスはメシアとして登場なさったのであります。闇に座する民であった異邦人、それから2000年近くを隔てた現在の私たちもそうでありましたが、そのような暗闇の中にうずくまっていた者たちに主イエスは光の中を歩む方として、光そのものとして現れたのであります。そして、そのときから、主は神の使者としての音信を告げ知らせ、また、こう語ることを始められたのであります。「あなた方は悔い改めなさい。なぜならば、天の国が近づいたから。」悔い改めるというのは、メタノイアという言葉から来ている動詞で、文字通りには、心の向きを変えるという意味ですが、神の民として神との契約に立ち帰るということであります。そして、なぜならば、天の国が時間的にもうそこまで来ている、神のご支配が迫っている、あるいは、主イエスにおいて神の主権が既に現在しているからだと言われるのであります。これは、洗礼者ヨハネの最初の説教と同じであります。旧約の時代から新約の時代に移り、主イエスにおいて旧約が実現したのであります。
私たちは、暗闇の中に座り込んでいた者ではないでしょうか。いや、今なおしばしば暗闇の中に座り込んでしまう弱いものではないでしょうか。しかし、主イエスにおいて、大いなる光を見、神のご支配を見出した者ではないでしょうか。当時の人々の思いを超えて、主イエスは異邦人のガリラヤ、海沿いの地、混沌と暗闇の中に座していた私たちの中にメシアとして現れてくださいました。私たちは、本日の特祷にありますように、父がみ子を通して多くの人々に信仰を与えられたように、信仰の賜物をもって人々に喜びを伝える器とさせていただきたいものであります。
 祈りましょう。
天の父なる神さま。人々の思いを超えて、主イエスは、ガリラヤの地、辺境の地でメシアとしての働きを始められました。また、異邦人、闇の中に座す民であった私たちの現実のただ中に光としてお出でくださいました。私たちが闇の中に座り込んでしまうことをやめ、主イエスとともに光の中を歩み、人々にその喜びを告げ知らせる者として下さい。キリストによって、アーメン。
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


スポンサーサイト
2008/01/20(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。