津田沼教会 牧師のメッセージ
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「真理の霊が来られる」(ヨハネ14:15~21)
ヨハネ14:15-21、2005・05・01、復活後第5主日(白)
使徒言行録17:22-34、ペトロの手紙3:8-17

ヨハネ福音書14章15節~21節
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」


説教「真理の霊が来られる」(ヨハネ14:15-21)
 
 復活節は、使徒言行録第1章によれば、主イエスが弟子たちのもとに、40日間にわたって現われになったことに基づき、復活祭から40日目が昇天日となり、今年は今週の5月5日となります。従って、次の週は既に昇天主日となります。復活節の終わりに近づいてきた本日、復活後第5主日に与えられています福音書の箇所は、先週の部分に続くヨハネ福音書14章15節から21節までの短い箇所であります。いわゆる告別説教の最初の章14章の中の一部分であります。ここが、主のご復活を覚えるために、与えられている意味について、しばらく、ご一緒に考えてみたいと思います。
 まず、この告別説教といわれる部分は、主が出発なさるというテーマと、再び主が戻って来られるというテーマが繰り返し出ますし、弁護者、あるいは、真理の霊と呼ばれるお方、すなわち、聖霊がやって来られることが、繰り返し出てきます。他にも同じような表現や思想が14章から17章までにわたって、繰り返されています。これは、主イエスが十字架におかかりになる前の晩に、最後の晩餐の席で弟子たちに向けて語ったものとして、現在の文章のようにまとめられていますが、口頭伝承や文書として伝えられていたものを、福音書記者ヨハネが、なるべくそのまま残して、編集したものであるために、そのような重複した表現や思想が残されているのだと考えられます。いろいろと、実際に主イエスがなされたとおりの告別説教の筋書きを復元しようとする試みもなされてきましたが、現在の私たちに残されている聖書をその通りに読んで、そのまま主イエスのなされた弟子たちとの最後の説教あるいは講話として素直に理解しても、特に支障はないと思います。
 本日の主イエスの語られた講話あるいは説教をもう一度ずつ1節ずつ思い起こしてみましょう。主イエスは、まず、「あなたがたが私を愛するなら、あなたがたは私の掟を守るであろう」と言われます。「私の掟を守る」とは、主イエスの指針、命令、すなわち、「主イエスが私たちを愛してくださったように、私たちも相互に愛し合うということ」であります。「そうすれば、私もわたしの父にお願いしよう、そうしたなら、父は、『別の弁護者』をあなた方に与えるだろう、そして、その方はあなたがたと共に永遠にいるであろう」と言われます。この弁護者というのは、もともと、法廷の弁護士、法的なアシスタントを意味しましたが、告別説教の中では、むしろ、この世界の不信仰を弾劾する検察官のような、裁く働きをも示しています。しかし、その他に、勧めをなす者、励ます者、あるいは、慰めをもたらす者という側面もあります。主イエスに代わって、主イエスの言葉を想起させ、主イエスの働きを代行なさるお方、それが、弁護者、パラクレートス、すなわち、聖霊であります。すなわちそれは、真理の霊で、偽りや欺きの霊ではなく、真理へと私たちを教え導く霊であります。
主は、この真理の霊を世界は受け入れることができない、なぜなら、世界はそれを見ないし知らないからであると言われます。主イエスが出発する、そして弟子たちのもとから出て行くというのは、この真理の霊が来られるようになるためであります。私たちが教会に来たのは、そしてまた、洗礼を受けたのは、自分の決心とか努力や意志によって、あるいは大変な悲しみによってなどであると私たちは考えがちですが、実は私たちが、教会につながることができているのも、この真理の霊によって導かれたのであります。
 主は続けて言われます。「しかし、あなたがたは、それを知っている、なぜなら、それはあなた方のところにとどまっておられるし、あなた方においておられるであろうから」と。教会という場所に聖霊はとどまっていますし、また、私たちキリスト者の交わりの間にそれはずっとおられるであろうから、と言われるのであります。そして、主は、私はあなた方をみなしごにはしておかない。あなた方のところにやって来ると言われるのであります。先生であるイエスは、その弟子たちを、離別のままに放っておかれることはなく、また弟子たちのもとに戻られると言われるのであります。主はこれから、出発なさろうとしておられますが、また、弟子たちの下にやって来られると前もって約束なさったのであります。それは、直接的には、十字架の死とその後の復活を意味しているでありましょう。そのときは、一体何のことか弟子たちにはわからなかったでありましょう。しかし、弟子たちとの離別・死別は、悲しみのままで終わることはないと主は前もって確かに宣言されたのであります。
 主は言われます、もうしばらくすれば世界は私をもはや見ない、しかしあなた方は、私を見る、すなわち、私は生き、あなたがたも生きることになろう、と言われます。確かにこの世界は、主イエスの死によって、主の働きは終わったとし、復活そして、主にある新しい命を認めないのであります。しかし、主は言われます、「かの日には、あなた方は知るであろう、すなわち私が私の父においており、あなた方が私においており、私があなた方においていることを」と。「かの日」とはいつでありましょうか。それは、直接には、復活の日でありましょうし、さらには、再来の日、主の再臨の時、いつか来る終わりの日をも暗示しているでありましょう。「父と子と私たち」は、しかし、復活の出来事により一体となり、今も相互の交わりに結ばれているのであります。
 そして、主は最後に、「私の掟を持っている者、それらを守る者、その者は、私を愛する者である」と、ちょうど、本日の箇所の最初の節で言われたことを逆にして言われるのであります。主の掟、すなわちあなたがたは互いに愛し合いなさいという指針・命令をただ単に、了解し認識するだけではなく、堅く保持し、実行することが、主を愛することになるのであります。それは実際言うは易く、実行するのは非常に困難なことであります。
しかし、さらに主は言われます。「私を愛する者は、私の父によっても愛されるであろうし、私も、彼を愛するであろうし、私は彼に自分自身を現すであろう」と。
 主イエスの捕縛と十字架の死によって、いったんは、弟子たちはばらばらに離散し、うちのめされ、うちひしがれることになります。しかし、主は、十字架の死へとあげられ、埋葬され、そして、復活を通し、また昇天をへて、主は約束の通り、弁護者、真理の霊を送ってくださいました。今もそれは続いているのであります。告別説教で主が約束されていたお言葉を、弟子たちは、復活と主のご昇天を通し、与えられた聖霊、慰め主、真理を教える霊を通してついには悟ることができました。それから、2000年近くたった現在も、この世界は、この真理に導く霊を見ようとしません。人間の理性や本性からはそれを理解することはできないのであります。しかし、私たちは、主がお命じになった掟、「互いに愛すること」を通して、み子が父においておられ、私たちがみ子においており、み子も私たちのうちにおられることを、この世界に知らしめていく責任を負っているのであります。主イエスが私たちのもとから出発なさったおかげで、聖霊を通し、私たちは父なる神、そして子なる主イエスと永遠に一体であり、神さまが私たちと共におられることを知ることができるようになったのであります。
一言祈ります。父なる神さま。あなたは今もみ子と共におられ真理の霊を送って下さっています。私たちキリストを信じる者が、互いに愛することを通して、私たちの罪のために肉をまとって人間の形をとり、死んでよみがえられた方を終わりの日まで崇めまつることができますように。キリストによって祈ります。アーメン。





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2005/05/01(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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